うちこのヨガ日記

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玄奘三蔵にビンタされて「顔をぶたないで!」と言いながら読む「大慈恩寺三蔵法師伝」


今日の画像は先日広島県宮島で出会った、今回のテーマにぴったりの三蔵法師像です。こわーいよぉ〜。
先月から「玄奘三蔵 ― 西域・インド紀行」を再読していたのですが、この本にはたいへんおもしろいエピソードがあります。
おもしろエピソードまでのあらすじを要約すると、

むかしむかし、インドの大乗仏教教学の中心・ナーランダー寺に、「正法蔵」と尊称される大徳戒賢老師という人がおりました。
かねてよりさまざまな教典解釈に対し「ほんまかいな」と思っていた玄奘三蔵は、ありがたい教えを求めて中国からインドへ、ニンニキニキニキとこの師の元へやって来ました。ちなみに人間と馬だけで行きました。猿・豚・カッパは同行していません。
そこで学び始めるやいなや、有能な三蔵はナーランダー寺で多大な評価を得るようになり、そこで数々の論争に勝っていきいます。
ある日、インドのハルシャヴァルダナ王という王様がウダ国という国を通りがかったときに、小乗仏教の人たちがたいへん幅を利かせているのを見かけました。そこで「およよ」となった信心深い王様が、大徳戒賢老師あてに「いま通りがかったウダ国というところで、小乗仏教の人たちが『大乗の人には論破できまい』とか言ってるんだけど、ちょっと大乗の論争メンバーを4人アサインしてよこしてくんないかな」とメッセージを送ります。
大徳戒賢老師がアサインしたそのメンバーには、玄奘三蔵も含まれていました。



これは現代の日本人向けの要約ですが、まあこんな感じです。世親以降の、仏教イケイケ時代の勢いを感じるエピソード。
で、これを「三蔵法師すごいぞ偉いぞ」という視点で読むと、なんとサーンキヤ学派の人はビンタされまくる展開になります(笑)。そのビンタのしかたがちょっとおもしろかったので、今日はサーンキヤ視点でのコメントをはさみながら紹介します。


<巻の第四 チャンパー国からカーマルーパ国王の来請までの 209ページ〜>
(漢字が機種依存のものはカナ表記で。複数回出るものはカナのほうが読みやすいのでカナで引用紹介します)

ウダ国では、まえに南インドの灌頂師である老バラモン、プラジュニャグプタという人が正量部の研究により『破大乗論』七百頌(じゅ)を作り、すべての小乗の人びとが、ことごとく尊重していた。そこで彼らはこの『破大乗論』を王に示し、
「私たちの宗旨はこのようなものです。この中のたとえ一字でも大乗の人には論破できますまい」
といったので、王は、
「聞くところによると、狐や鼠の類は、自分一人のときは "私は獅子よりすぐれている" といっていても、いざ獅子をみると、たちまち死におののきふるえるという。貴方たちはまだ大乗の諸徳にあわないので、固く愚かな小乗を守っているのである。もし大乗の諸徳にあえば、一見して恐れをなすこと、かの小鼠と同じであろう」
と答えた。すると人びとは
「王はそのように疑うのなら、どうかここに大乗の高徳を呼んで対決し、是非をきめたいものです」
といったので、王は、
「そんなことは簡単である」
といって、直ちにその日に使いに手紙を持たせ、ナーランダー寺の正法蔵戒賢法師につぎのように伝えた。
「私はウダ国に来ましたが、ここで小乗の師が自分の偏見にとりつかれて論をたて、大乗を誹謗しているのをみました。その論理はきわめて害多く、よるべからざるものがあります。そして彼らは対面して貴方がたと論争したいといっています。私はナーランダー寺の大徳がいずれも才智あまりあり、学の蘊奥(うんのう)を極めていることをよく知っております。そこでこの論徳四人をウダ国の行在所に送ってください」

ここまでは、さっき要約したとおり。
続き↓

 正法蔵はこの親書をみて衆僧を集めて評議し、海慧(サーガラマティ)、智光(ジニャナプラバ)、師子光(シムハラシュミ)と法師の四人を選び、王の命に応ずることになった。
 海慧(かいえ)らはこの命をうけてみな心配した。しかし法師が、
「小乗諸部の三蔵は、私の本国でもおこなわれておりますし、カシュミールに入って以来、各地で遍く学びつくして私はことごとく知っております。もし誰かがその教えで大乗の教義を破ろうとしても、そんなことができるはずはありません。私は学浅く智恵もありませんが、かならず説き伏せてみせます。みなさん、どうか御心配なく。もし万一敗れたにしても私は支那の僧なので、貴方がたの名声には傷がつきません」
といったので、人びとはみな喜んだ。ところが、しばらくして王からつぎのような手紙がきた。
「さきに諸大徳を要請したが、すぐによこさないでいただきたい。またあとで通知するからそのとき送ってください」

なんだこの仕切りの悪さは(笑)という展開ですが、おもしろいことに、ここで仏教同士の論争から、ヒンドゥーの他派(仏教視点で言うと、外道)との論争に変わります。この展開構成、誰なんだろ。おもしろい。この物語は慧立と彦そう(げんそう)という人物に書かれているようですが。
続き↓

 そのころ、また順世派(Lokayata 快楽主義)のある外道がナーランダー寺へやってきて戦争を求めた。彼は四十条の疑義を寺門にかけ、
「もし一条でもこの議論を破る人がいたら、私は首を斬って謝りましょう」
と豪語していた。数日をへたが、これに対して応ずる人がいない。そこで法師は房内の掃除人にその疑義文をとりはずして打ちこわさせ、足でぐちゃぐちゃに踏ませてしまった。
 これをみてバラモンは大いに怒った。
「お前はいったい何者か」
「私はマハーヤーナデーヴァ(摩訶耶那提婆、乗天の義、インドにおける玄奘の名)の使用人だ」
 かのバラモンも、もちろん法師の令名は知っていたので恥じ入って何も語らなかった。そこで法師はバラモンを呼んで寺内に入れ、正法蔵の前につれてゆき、同時に諸徳に命じて立会人として、彼と議論をした。その論は根本に立脚して外道諸派の論拠を尽くしていて、つぎのとおりである。

ここでローカーヤタ派のエピソードを挟むのが、ニクい! しかも玄奘がやってることがヤンキーっぽい(笑)。勢いが…、あったんだね。このあと片っ端から斬っていくモードに変わります。
続き↓

「プータ外道(塗灰外道の一)・離繋(ニルグランタ)外道(ジャイナ教)・カバーリ外道(迦波釐)・殊徴伽(ジュティカ)外道(未詳、いずれも諸種の苦行を修法するインド諸外道の称呼)の四種は、形態が同一でない。また数論(サームクヒヤ)外道(原注、旧に僧法という、数に基づく論を基調とするインド六派哲学の一つ)。勝論(ヴァイシェーシカ)外道(原注、旧に衛世師という、緒論に勝つ論の意)。数論とともに二十種外道の一つ)の二派の主義も、それぞれ相違がある。
 プータの輩は灰を身体に塗り、それで道を修めるといっている。その身体は全身真白で、まるで竈にねている猫や狸のようである、またニルグランタの徒は裸体になって得々としており、髪をぬいて苦行するのを徳としているが、皮は裂け足は破れて、まるで河岸の枯木のようである。カバーリの人びとは骨で鬘(かつら)を作り、頭や頸にかけて得々としているが、そのむごい姿は墓場のそばに立つ鬼神・薬叉(ヤシャ)のようである。ジュティカの輩は糞まみれの衣服をまとい、大小便を飲みくいして、その汚く臭いことは、厠の中の狂った豚のようである。貴方たちはこれでもって修行の道としているが、なんという愚かなことか。

裸体になって得々としてないよ!(笑)現代の感覚だとジャイナ教はそんなに斬らんでも… という気がするのですが、ここから矛先がサーンキヤヴァイシェーシカに絞られます。どきどき。
続き↓

 さらにまた数論外道のごときは、二十五諦の義(自性・覚・我慢・五知根・五作根・心根・五唯・五大・神我の計二十五義)を立て、その数論に基いて自性(物質的原理たるそれ自身の存在)より大(または覚ともいう、知覚する決智)を生じ、その大より我執(または我慢ともいう、我が声、我が福徳として愛する我執)を生じ、つぎにそれより五唯量(五大を生ずる功能ある純粋無雑の原理たる声・触・色・味・香)を生じ、つぎに五大(声大・触大・色大・味大・香大)を生じ、さらにつぎに十一根(耳・皮・眼・舌・鼻などの五知根と舌・手・足・男女・大遺の五作根と心根をいう)を生じるのだとする。そしてこの二十四諦の義をともに供奉し受用して、それらを順次除去し習得し終われば、ついに清浄の境地を得ることができるのだと説いている。

三蔵法師、要約解説ありがとうございます!(笑)よくこの文字数でまとめるよねという要約力。
ブッディ(あるいはマハー)を「知覚する決智」と書いているのがおもしろい。アハンカーラが我執または我慢となっているのもおもしろい。いまの日本の「我慢」の用法は意味が反転しているとも言えますね。

漢訳:サンスクリットサーンキヤ(数論)でカウントする際の項目数】

  • 自性:prakrti【1】
  • 覚(大):buddhi / mahat【1】
  • 我慢(我執):ahamkara【1】
  • 心根:manas【1】
  • 神我:purusa【1】
  • 五唯(五唯量):tanmatra【5】
  • 五大:panca bhuta【5】
  • 五知根:janendriya / buddhindriya 【5】
  • 五作根:karmendriya【5】
  • 十一根⇒五知根+五作根+心根(参考

五知根と五作根って、漢字の底力を感じるわ。般若心経の前半の文字列がサーンキヤの教えに見えてくる妙味の背景を、感じる人には感じて欲しい(般若心経を訳したのも玄奘三蔵です。2バージョンあるけど、日本の写経で使われているのは玄奘のがほとんど)。
さらに法師の解説は続きます。
続き↓

 また勝論師のごときは、六句義というものを立て、実・徳・業・有・同異性・和合性の六義をもってこれにあてている。そしてその六は我の受具するところであり、それから解脱できない場合は、その六義を受用しているものとし、もし解脱を得られれば、それは六義と相離れることができ、結局涅槃の境地に達するのだと称している。

ヴァイシェーシカまで要約解説してくださる。重ね重ねありがたい。

  • 実:dravya
  • 徳:guna
  • 業:karma
  • 有:samanya
  • 同異性:visesa
  • 和合性:samavaya

visesaとsamavayaが「同異性」「和合性」になっているあたりで、インド⇒中国に教えが伝わってくる段階でちょっと二元論に陥りやすそうな気配をまとっているところが興味深いです。ちなみにわたしは、付き合うならサーンキヤ君、結婚するならヴァイシェーシカ君みたいな感じで、両方すき。なのでここをセットで攻めてくる玄奘三蔵に、「いやなこと言ってくるわこの人!」という感情を抱きます。
で、ここからは三蔵法師によるサーンキヤへのピンポイントのツッコミ。
続き↓

 そこでまず私は、前者の数論の教義を論破してみよう。汝らは二十五諦のうち、我(すなわち神我)の一種のごときは別性の存在で、その他の二十四諦が展転と変成して、結局一体となるのだと考え、しかも自性の一種は三法をもって本体をなすとしている。そしてその三法サットヴァ(薩☆、歓喜)・ラジャス(刺闍、悲観)・タマス(答摩、数論にいう三徳)が展転して『大』以下の二十三諦を合成していくのだと考え、さらに二十三諦もみな三法をもって本体としているのだと説いている。
 ところでもし『大』以下の二十三諦をもって、一々みな三法をとって変成するのだとするならば、その数は際限なく林立してしまって、どうしてそれらを一切これ実であるということができようか。またもしこの『大』などが、三をもって成るとするならば、すなわち一は一切ということになるはずである。ところがもし、一すなわち一切であるとするならば、まさに一々にみな一切の作用があることになる。
 しかし、そういう論法が許されないとすれば、いったい何によって、三をとって一切の体性(たいしょう)とすることができようか。またもし一すなわち一切ならば、口や眼などの器官が、すなわち大小便の排泄の路となろう。また一々の器官に一切の作用があれば、口や耳で香をかいだり色をみることができるはずである。
 もしそうでないとすれば、どうして三をとって、一切の法体とすることができようか。有智の人として、どうしてこのような義を立てるものがあろうか。また自性はつねに、我の同体のごときものであるという。
 それではどうしてそれが転変して『大』などの法を作ることができようか。またそうすると我なるものの性が、つねに自性に応ずるような存在ならば、これはまさに我ではない。もし自性のように、その本体が我ではないということになれば、二十四諦の義は受用できなくなるはずである。そして我という存在が受容すべきものでないとするならば、結局二十四諦の義もまた受用すべきものではないことになる。そしれそれらの功能も存在も否定されてしまえば、結局は諦の義は成立しないことになるのである」
(☆は、「土垂」←これを半角にしてくっつけた字。土へんに垂)

ツッコミのポイントを分けて見ていきましょう。

  • その数は際限なく林立してしまって、

⇒林立はするけど破滅もしているので、いってこいで、いいじゃん。

  • どうしてそれらを一切これ実であるということができようか。

⇒「破壊が創造のはじまりで一周する、そのサイクル・法則をひとまとめにしちゃう癖があるんだよね、ぼくたち」と、インド人は言いたくなると思うの。

  • またもしこの『大』などが、三をもって成るとするならば、すなわち一は一切ということになるはずである。

⇒ゼロとイチを定義するときに、『ゼロは「無い」という状態が有る』って考てしまう人にこのツッコミをしても、「これは仕様です」って気分だと思うのインド人は。玄奘さんの指摘は文章としては成立するし力強いのだけど、文系の中国人が理系のインド人にいちゃもんをつけているかのような感じになっちゃってますわ。

  • いったい何によって、三をとって一切の体性(たいしょう)とすることができようか。

⇒ここは、「トリグナってなんだよそれー」というツッコミ。冷静ですね三蔵法師。まさにここにツッこむスタンスがあるかないかが、仏教とヒンドゥーの分かれ目な気がいたします。

  • またもし一すなわち一切ならば、口や眼などの器官が、すなわち大小便の排泄の路となろう。

⇒ここはただ、「玄奘三蔵、やなやつですね」って感じしかしない。口汚いなーもう。

  • 我なるものの性が、つねに自性に応ずるような存在ならば、これはまさに我ではない。

⇒良くも悪くも男らしい。サーンキヤ・カーリカーを読むと、そこに「エロス」を感じる強引さがあるのですが、「そんなん、わかるかボケ!」という「至極まっとうな中国のおじさん」としての三蔵法師にここは軍配を上げたい。サーンキヤが流行らない理由が、まさにここにあると思うので(笑)。理趣経もちょっと似たところがあっておもしろいんだけど…。

  • もし自性のように、その本体が我ではないということになれば、二十四諦の義は受用できなくなるはずである。

⇒いやだからそこを受用できちゃうのが、サーンキヤのすてきなところなのよぅ。でもツッコミどころは、ここよね。


で、終盤は結局「諦(Tattva)」は、仏教では真理を意味するから、安易に使われちゃいやーよ」ということっぽいんですよね。
それは空海さんの「秘蔵宝鑰」にも書かれています。(リンク先の中に引用あります)
で、この物語はこんなふうにクロージングする。
続き↓

 このように数回くり返し述べたが、かのバラモンヒンズー教徒)は黙然として一言も答えず、つと立ちると、
「私の敗です。どうか前の約束どおり勝手に処分してください」
といった。ところが法師は、
「われわれ釈門の弟子はけっして人を害わない。いま私は汝を奴僕(ぬぼく)とすることにしよう。私の命令に従いなさい」
と答えたので、バラモンは大いに喜んで敬服し、房につれられていった。そしてまた、これを聞いて感心せぬものはなかった。

ほんとかよ! なんかすごく勧善懲悪(笑)。
でもこのエピソードはインド人の権威大好き服従萌えメンタルと、中国人&日本人の勧善懲悪好きのメンタルのルーツが見えるようで、すごくおもしろい。
中国人が書いてるんだけど。



ある意味、この三蔵法師のイメージは、すごくあっている!

▲クヨクヨ成分がふっとぶ、魔法のマントラ

わたしが居れ〜ば 大乗ブンブクブン!