うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

本を読んだら散歩に行こう 村井理子 著

生きているとたくさん、コミュニケーションの後悔をする。

なんであんな言いかたをしたんだろう、とか、なんであそこでずるい質問の形をとってしまったのだろう、とか、個々のパワーバランスを推測せずに雑に人と人を繋ごうとした能天気さとか、そういう後悔がたくさんある。

 

この本にあった『実兄よりも兄として慕った音信不通のままの男性』のようなエピソードが、まったく同じではないけれど、そういうやり場のない後悔のような感情を、わたしも経験している。

わたしの慕うあなたが他の人からおかしな事態に見えていたとしても、慕う気持ちは変わらない。そう思う人とのコミュニケーションは、ときどき綱渡りのようになる。

 

 

わたしの友人が、金融商品をかつての同僚に売り歩いているらしい。という話を、顔と名前は知っているくらいの共通の知人から「あなたのところにもその話があったか」と言われたときに、どうするか。

30歳を過ぎると、こういうことが起こってくる。

その友人と少し前に二人で食事をしたけれど、そんな話はまったくなかった。わたしはこういうことをサッと忘れるのが得意だ。30代の頃から「そういうこともあるものだ」と思ってスルーできる。その前に経験し、学習していたから。

だからスルーを失敗した人の初回の後悔がすごくよくわかる。

『実兄よりも兄として慕った音信不通のままの男性』という話に、その初回の学びがとても上手に書かれていた。ほんとうまいな・・・と、唸るような気持ちで読んだ。

 

 

『オーディオブックがもたらす想定外の効果』という話もおもしろかった。

原稿チェックや恥ずかしいミスの絶望感が語られる部分は、まるで川上未映子さんの『すべて真夜中の恋人たち』という小説そのまんまの世界で、そこからオーディオブックの話になる。

著者の村井さんは翻訳家で、元の英語の文章が音声で読まれたものを聞いたときに、主人公が少し笑っているようにナレーターが読んでいるのを聞いて、「ああっ! ここはもう少し明るい気持ちだったのか!」と気づくのだそう。

声のトーンには、同じ文字列を各自がどんなふうに受け取っているかを耳で「見える化」する、そういう効果がある。頭ではわかっていたけれど、こういう実務の話を聞くと、より事実に近く見えてくる。

 

 

これまでに3冊、著者の本を読んだけれど、どれも「後悔」の書きかたが格別にいい。淡々としていてリアルで、すごくいい。

そこに言い訳もリスクヘッジもない感じがする。そう感じさせる強さがある。

── と、わたしは読み手として感じていたのだけど、そこへの内省と違和感まで言語化されていました。(とことんです!)

これはわたしが少し前に読んだ『家族』という本を書いたときのことだろうな・・・。

 しかし、原稿をようやく書き上げて、徐々に不安になってきた。私が不安になった原因は、記憶の補完をしてしまったのではないかということだった。文章として起こしやすいように、つまり自分が楽に書けるように、無意識のうちに記憶を作り上げてはいないだろうか。そう疑ったのだ。

(流れの速い川を進む兄と、母の叫び声 より)

好きだ!!!

 

わたしはたまにアマゾンのレビューや読書SNSに見られる「お守りのような本」というフレーズに恐ろしさを感じることがあって、それは「神対応」という文字列に感じる恐ろしさと似たもの。ちょっと話の運びの包容力が過剰じゃないかと思う本に対して、それを感じることがある。

だけど、この本の著者はそういう方向へ読者を導かない安心感がある。この塩梅が絶妙だ。

 

 

この本は本を紹介する本なので、いくつも読みたい本が増える。本の紹介に入る前の内省が毎回すごくて、そこから投げ込まれるオススメ本にコミック・エッセイのような軽いものが多かったのも絶妙。すてきな人だと今回も思った。