うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

なにも問題は起きていないのに、はじまってしまうあの思考のこと(「すべて真夜中の恋人たち」読書会より)


先日、東京で開催した「すべて真夜中の恋人たち」読書会でこの本を読んだ方々と話しているときに、主人公が陥る状態について「この思考、とても現代病っぽいですよね。なにも問題は起きていないのに」とおっしゃるかたがいて、うんうんとうなずく時間がありました。

わたしはもし幸福な瞬間を言語化するならば「正当化も卑下も自虐もしていない状態でいること」と思っているのですが、それは起きているときも、起きぬけに夢を見ているときでもそう。必要のない正当化、必要のない卑下、必要のない自虐、そういうものをわざわざつかまえていないかと自分の意識を点検してみると、自分で取りにいっているんです。
日常の中でこの三点のスパイラル(正当化・卑下・自虐)がふわっとやってくるときに、この小説の主人公・冬子はうまく習慣の挙動で回避することもあるのだけど、どっぷりはまってしまうこともある。このように。

こんなにもたくさんの人がいて、こんなにもたくさんの場所があって、こんなに無数の音や色がひしめきあっているのに、わたしが手を伸ばせるものはただのひとつもなかった。わたしを呼び止めるものはただのひとつもなかった。過去にも未来にも、それはどこにも存在しないのだった。(9章)

わたしはこれまで、何かを、選んだことがあっただろうか。わたしは両手のあいだにおかれた携帯電話をみつめながら、そんなことを思った。この仕事をしているいまも、ここに住んでいることも、こうしてひとりきりでいるのも、話すことのできる人が誰もいないことも、わたしが何かを選んでやってきたことの、これは結果なのだろうか。

( 中略 )

 でも、とわたしは思った。それでも目のまえのことを、いつも一生懸命にやってきたことはほんとうじゃないかと、そう思った。自分なりに、与えられたものにたいしては、力を尽くしてやってきたじゃないか。いや、そうじゃない。そうじゃないんだとわたしは思った。わたしはいつもごまかしてきたのだった。目のまえのことをただ言われるままにこなしているだけのことで何かをしているつもりになって、そんなふうに、いまみたいに自分に言い訳をして、自分がこれまでの人生で何もやってこなかったことを、いつだってみないようにして、ごまかしてきたのだった。(10章)

「やる」だけではだめなのか。だめだったのかな。「選ぶ」ことをしないと、だめなのか。だめだったのかな。そんな思いを培養し、自分の毒が自分にまわったかのような状態になる主人公・冬子は、実社会では高校時代の友人から連絡をもらって食事をすることがあったり、仕事では個人で発注を受けていくに到るほどの実績もあります。
なのに、なのに陥るこの思考。しかも、何度も。



  あなたじゃなきゃ、だめなんです。



と、言われたいのかな。うんうん、そう言ってもらえたら、ふと気持ちが軽くなることって、あるね。
そしてこんなときにはその前にもうひと言、欲しい単語があるんだよね。



  絶対にあなたじゃなきゃ、だめなんです。


絶対に。
あなたは、絶対的に選ばれたのだと。人が信仰の「対象」の登場を渇望するのは、きっとこんなとき。
冬子さんあなた、いま壺とか石とか水とか買いそうよ! 気をつけてーーー!!!
── でもこの人は、大丈夫なんです。硬すぎないから。いろいろな立場や状況の人と会話ができる。口数は少ないけれども、そういう柔軟さを持っている。



わたしはバガヴァッド・ギーター4章22節・上村勝彦訳にある「たまたま得たもので満足し」というフレーズがすごく好きなのですが、「たまたま得られるもの」を「享受する」と「決めた」という三点セットも選択とみなしていいと思っています。この主人公のような専門性のある仕事ができている人まで落ち込むまなければいけないなんて、どこまでハードルをあげようっていうの。
たまたま得られるものを得た = 意志を発動しなければいけないのに、ごまかした という考えは、あまりに自虐的。出されたものをおいしく食べられるって、すごくしあわせなことだと思うんだけどな…。
「"選ぶ" ことをしないと、だめなのか」というのは、わたしにとってかなり共感度の高い日常的な問いです。