うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インド哲学の教室 ― 哲学することの試み 宮元啓一 著


インド六派哲学の「自己」の設定を対話形式の講義録を読むかたち(架空の授業)でまとめられています。
授業は「自己と世界」「ことばと世界」「哲学の目的としての絶対的幸福」の3つですが、最後の章の副題が「人情を超えて」となっており、そのなかの小さい章に「人情も我執も断つのがインド哲学の正道」「ブッダの修業の要は無関心=非人情だった」「夏目漱石宮沢賢治に共通する非人情」があり、こんなにすばらしい構成があっていいのか! と思うほどおもしろくてイッキ読みしてしまいました。
カントもニーチェも出てきますが、この本のなかでは「カントはインド哲学に近いといえる」と語られ、ニーチェについてはまさに現代の哲学の先生らしいコメントとして

昨今の風潮を見るに、ニーチェニヒリズムは、この日本において着実に根付きつつあるんじゃないでしょうか。

と。鋭い。


この本は若者との対話設定なので、第一講の「自己」の話で「自分探しとは」という問いが展開されるのですが、

「自己」と「身心」とをごちゃ混ぜにした「自分探し」は、けっして成功しないのです。(55ページ)

と言い切る先生の説明にうなる。




インド哲学を学ぶということは、こういうスタンスにならざるを得ない」という記述のなかに、いままでこの学びがたいへん孤独な作業であると感じてきた理由も見えてきて、たいへんすっきりしました。

<118ページ 第二講 五. 無について より>
 ここでちょっとお断りしておきますが、インド哲学では学派どうしで大いに議論を闘わせますが、論争は弁証法によるのではなく、あくまでも公理系どうしの正面切ったぶつかり合いになるのです。が、その公理系どうしは、「正邪」の関係にあるのではなく、「優劣」の関係にあると見なされる、ということです。理論に「正邪」の判定を求めるのは、宗教理論、つまり神学ですね。

ヨガのスピリチュアルな訴求(商業シーン)でよく見る「つなぐ」「絆」「競わないという考え方が好き」という気分のスタートでは、インド哲学に深く入っていくのはたぶんむずかしい。理論に「優劣」をつけるプロセスのなかにある根性に智慧という名の生命力を感じる人には、すごく魅力的な学問だと思う。解脱したいとどこまでも本気で思っていなければ、この根性は続かない。むずかしい=排他的なのではない。やさしい=博愛的でもない。とにかく奴らは、本気なのですよ(笑)。「もういっかい人間とか、まじでしんどい」と思えたらハマれます。



<78ページ 第二講 一. 言語と世界の関係 より>
 ニヒリズムを避けようとして、神への信仰を持ち出してくる人もあります。信仰の世界は哲学の世界とは別次元にあります。哲学にあくまで身を挺するというのであれば、世界が言語空間であることの根拠を問わないというのが、健全で賢明な態度だということになるわけです。わたくしたちは、哲学的にものごとを考えようとしているのですから、この態度に安住する必要があります。


(中略)


世界を認識するということと世界を語るということは等値ですから、世界がどうなっているか分析するということは、必然的に、言語を分析するということと等値だということになります。言語の構造を把握すれば、それはただちに世界の構造を把握することに直結するわけです。

わたしはプラクティカルなヨーガから哲学の学びに入って行くなかで「サンスクリット語」の特殊性の理解抜きには人生訓以上のところには入っていけない気がしていたのですが、その理由がこの講義のなかですこし見えてきた気がします。




この本では六派哲学それぞれの主要な考え方が紹介されているのですが、なかでもヴァイシェーシカ学派の実在論哲学の説明がおもしろくてのめり込みました。

<84ページ 第二講 二. ヴァイシェーシカ学派の実在論哲学 より>
 この考え方は、頓狂に見えて、まことに力強いものなのですよ。たとえば、この世には、フィクションか現実かよく分からないものがあふれかえっていますね。そうしたものについて、意義も意味も持つか、意義を持っても意味を持たないかを、一々詮索するというのは正直いって無理な話です。ところが、ヴァイシェーシカ哲学流でいけば、そうした諸々のものは、「フィクションか現実かよくわからないものとして実在する」で、すべて済んでしまうんですね。まずはこう規定しておいて、それからゆっくりとそれがフィクションであるのか現実なのかを追求していけばよいわけです。

「まずは認める」という手順をとれるのは、すごいアイデアだと思う。



<96ページ 第二講 三. カテゴリー論 より>
認識され、言語表現されるものはすべて実在であるとするヴァイシェーシカ哲学の原則に従いますと、「無いもの」、つまり無も実在であることになります。
 サンスクリット語では、「この床に水がめがない」は、簡単に「この床に水がめの無がある(実在する)」という文章に変換できるのです。ですから、「この床に水がめがないと見る」も、「この床に水がめの無を見る」に変換できるのです。

「"無い" という状態がある」というゼロの概念もそうですが、こういう考え方はインド哲学の世界を知りたいと思うまでまったく触れる機会がないものでした。わたしがヨーガにハマっていったのはこういう理論に「インド人、頭よすぎ!」と感動したのがはじまり。有と無を等位に並べて認識するという発想自体がなければ、「こころのはたらきは止滅できる」という目標設定もできないんですよね。




次の章にあった、実体論としてのマナスの説明もわかりやすかった。

<103ページ 第二講 四. 実体について より>
 意(manas)は、思考力・注意力を実体として捉えたものです。大きさは原子大で、一つの身体に一個だけあるとされます。そして、意は、ふだんは猛烈なスピードで、多くの感官と接触し、世界の情報を捉えるとされます。だから、意がある一つの感官と接触した状態が長く続くと、他の感官からの情報が途絶えてしまいます。たとえば、ある光景に目を奪われると、すぐそばで名前を呼ばれても聞こえないというのは、そういうことだと説明されます。また、ヨーガを実践しますと、意はすべての感官から離れ、自己に安住するといわれます。情報から完全に切り離されること、これがヨーガだというのですね。

池上さんか! と思うほどの簡潔さ。




ヤージュナヴァルキヤ、サーンキヤ哲学、シャンカラヴェーダーンタ哲学の関係の説明も、とてもわかりやすかった。ここはほぼ自分用メモ。

<63ページ 第一講 七. 自己による世界の生成 より>
サーンキヤ学派は、この世界の生成を、流出論という形で説明したのです。つまり、サーンキヤの二元論は、ヤージュナヴァルキヤが考える自己と世界との関係を下敷きにしたものといえるのです。
 ヴェーダーンタ学派で最初に根本テクスト『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著すのに成功したシャンカラは、サーンキヤの二元論の構造をそっくり借用し、しかもその上で、流出する世界は無明が映じ出した幻影(maya)に過ぎず、存在するのはただ自己のみであるとしました。すなわち、シャンカラは、ヴェーダーンタ哲学の伝統の中で、一元論を守るために流出論を(幻影として)捨てたのです。こうした考えを、不二一元論といいます。

シャンカラさん、巧妙……。




この本では、仏教の無我説についての警告が序盤と終盤で語られるのですが、全体を通して読んだあとに以下の説明があります。

<163ページ 第三講 人情も我執も断つのがインド哲学の正道 より>
自己を主題(主語)にした議論を展開することはなかったけれども、ゴータマ・ブッダはヤージュナヴァルキヤが指摘した自己の本質を、暗黙のうちに前提としていたのです。自己についての議論をしないからといって、ゴータマ・ブッダが自己の存在を否定したなどと考えるのは、とんだ早とちりとしかいいようがないですね。

この記述の前にある「自己についての議論をしない」の理由を、「経験的な事実を出発点としない、いわゆる形而上学的な議論への参加を、ゴータマ・ブッダはきっぱりと拒絶した」としており、これは本当にそうであったのだろうなと思う。



ヨーガと併せてインド哲学を学ぶとき、どの学派の論もそこへ至るプロセスにあるさまざまな「自己」の設定のバリエーションを知ることが大きな学び。うまい喩えが炸裂するウパニシャッドは読んでいて楽しいけれど、その後にさまざまな学派が「自己の設定の正しさの優位」を競った学問はもっとキラキラ、いや、それ以上にギラギラとしていて、ここまでいくとカーニバル! という勢い。(参考「チャラカ・サンヒター」第25章の冒頭が傑作すぎる
わたしは、考えを否定されたら同時に自己を否定されたと認識してしまうことが、いまどきの苦しみかたのひとつの「型」だと思っているのですが、この本の58ページにある「わたくしたちは、認識主体は認識主体、認識手段は認識手段、認識対象は認識対象と、はっきり区別しなければならない」という先生の言葉が大きな救い。
わたしは日常の感覚として、昔の常識と今の常識とがうなぎのタレのように重なる「用件の多い生活」のなかで、宗教も哲学もなく自己を保つのって、かなりむずかしいと思うんです。「学びたいと思う気持ち」は、すごく生命力を与えてくれるもの。ですです。