だいぶ前の話になりますが、神戸の生ブログに参加いただいた方からのコメントに、こんなひとことがありました。
「最後に集合写真の召集がないのがとても気に入りました♪」
ご理解いただけるかたが、ここにも。こういうことって、わたしからは言いにくい。
同じことを、今年のはじめに東京の練習者さんと話したことがあります。お名前は仮に、ゆきこさんとします。
ゆきこ:うちこさんのクラス、ツルむ雰囲気がないのでラクです。
うちこ:わたし自身、自分が生徒のときはウェブサイトに集合写真があるところを避けるんです。思い出作りではなく練習がしたくて行くので。
ゆきこ:だろうな、と思ってました。
うちこ:あの集合写真の文化は、主催者や指導者側の都合のような……。
ゆきこ:こんなに生徒が来て(というプレゼンテーション)、ってことですよね。手でハート型を作ることになっちゃったりして、断われずにやっただけなのに、あとでFaceboookを見た人から信者みたいに言われて、めんどう。
うちこ:顔が宣材写真になる場合は断っていいはずなんだけど、しずらいよね。海外では「わたしはいまビジネス・トリップということになっているので、日にちと場所の断定される写真は NO です」と言って断ってる。できるだけ、だけど。
ゆきこ:そうか! 「仕事中ということになっているので」って言えばいいのか!
うちこ:わたしは、そうしてる。実際そうなので(笑)。
ゆきこ:あれ困る人、実は多いと思うんですけどね。
写真全般に対して言っているわけではありません。「集合写真を撮ることも公開されることも断りにくいムード」について言っています。たぶん神戸でコメントをいただいた方も、指摘のポイントは同じかと。
写真はその瞬間を記録するものではあるけれど、「誰かが誰かに共有する」という過程でまったく別の意味合いを持ちます。ただの記念だったら、公開する必要はないですよね。その「意味」もエネルギーで、わたしはわりと取り扱い注意な性質のものと考えています。「関係」に価値があることを認めていたら、相手を尊重していたら、やりにくくなることだと思うので。
この線引きは、すごくむずかしいです。そういうプレゼンテーションを喜ぶ人も、たくさんいます。なので、「喜ばれるからやった」という図式も発生します。でもそれは、それを喜ばない人にとっては、びっくりするような理論を展開する痴漢とちょっと似ている。裁判所へ傍聴に行くと、わいせつ罪の被告人が「女性は男性を求めてる」という理論展開をすることがたまにあるのですが、それを想起する。インドのマヌ法典にもあったりするくらい、「喜ばれるからやった」というのはプリミティブなモーハー因子です。
ぬ?
脱線した。
戻す!
誰しもひとつの顔で生きているわけではないので、せっかく起こした行動が、かえって行動範囲を狭めることにならないように。なにより、わたし自身がいつでもどこでも練習したいので、そういう考えです。わたしは見ようによっては、かなりネガティブな人間です。分解して言うと、ネガティブな考えのできる人間です(いばるんか!)。なんというか、いろんな種類のネガティブを見にいけるところが、ヨガの研究や指導に向いているところだと思っているの(いばるの!)。
ヨーガの哲学の世界には、「そんなことを考えるなんて」というポジティブ・ハラスメントやシャンティ・ハラスメントはありません。「かわいそうな人ね」「よかれと思って」という種類の呪術も暴力もありません。「心というものは、ほうっておくとそっちに堕ちていくものだから、こうするんだよ」という、ネガティブさを見つめた智慧の集積です。
ここまでイラッとせずに読んでくださったあなたとは、わたくしきっとノリノリで共鳴できます。
いろいろわかったうえで一緒にヨガをしにきてくれるみなさん、ありがとうございます。