うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

あなたの脳にはクセがある ―「都市主義」の限界 養老孟司 著


先に個人的なプッシュ・コメントを書くと、子育て中のお母さんは必ず読みましょう絶対読みましょう読んだ方がいいです読まなきゃバカ〜ン、くらいのオススメ度。都市主義に母親の一神教が重なると、子供ちゃんはたいへんしんどいであろうと思うのです。
この本は珍しくアマゾンに載っている内容紹介コメントがおもしろい。

あの事件、この出来事から語られる、現代人に取り憑いた重い、おもーい病い。あなたの脳は大丈夫?書き下ろし「方法としての言葉」収録。

この紹介の通り、現代人に取り憑いた病、思考の病を紐解くエッセイのオンパレードです。


<60ページ テレビの世界・現実の世界 より>
 知識というものは、じつは自分を変えるものなのである。たとえばガンの告知を受け、自分がガンであることを知れば、知った瞬間に咲いている桜が違って見える。それは桜が違うのではなく、知ることによって自分が変わるからである。また、自分が去年までどういう気持ちで桜を見ていたか思い出そうとしても、生き生きとは思い出せない。過去の自分はすでにべつの自分だからである。「知る」ということは、本当はそういうことなのだ。


(中略)


万物はすべて移り変わるというのは、人間が変わっていくからなのである。人間の身体は七年たてば細胞はほとんど入れ替わる。『方丈記』の「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」というのは、人間のことなのである。

この方丈記への結び付けかた、たまらんなぁ。



<68ページ 崩壊する共同体 より>
他人が自分の子どもを注意することを許さないのは、子どもは母親の一部だと思っているからにほかならない。

前後はあえて省いてこの一行だけを紹介したい。前後は、ぜひ本を読んでください。



<99ページ 細胞は死なない より>
細胞はきわめて複雑なのである。昨日も今日も同じような姿だが、構成要素はいつも入れ替わっている。そんな機械をわれわれは作り出すことができるか。
 いまのところは無理である。ヒトをあるていど生き延びさせることはできる。しかし死なないようにすることは、とうていまだ無理なのである。

転変する物質の感覚がある人のことばは、インド哲学的になる。



<189ページ 手続きとイデオロギー より>
 いまの若者にとって環境問題は常識である。自由題でレポートを書かせると、理科系の学生はしばしば環境問題について書いてくる。どうせ就職すれば、仕事だと称して環境問題など聞こえないふりをする可能性は高い。就職までの思想という意味では、われわれの時代の左翼思想と似たようなものである。

ばっさり。



<222ページ だれが学問を評価するのか より>
 シェイクスピアをよく知っていて、聖書をきちんと読んだことがある。それくらいは英語を学ぶなら、当然であろう。いまは英語がしゃべれればいいという時代だが、では聞くが、いったい英語でしゃべるべき内容があるのか。英語が話せても、いうだけの価値がある内容を持たなければ、べつに英語で語る意味はない。
 本当に相手が聞くべきことをいっているときに、それを聞くことができるか否か、それは語学ではない。理解力である。外国人の理解力が欠けていること自体を、日本人の私が補ってあげることはできない。英語を話す人たちが、人類のなかでとくに理解力がすぐれているということでもなかろう。

養老先生は、知識のありかた・ありようも、きっと細胞のようにみているんだ。



<235ページ 肺魚のウィスキー漬け より>
 われわれの生活から見れば食うや食わずなのに、なんでアフリカでは、鉄砲を持って部族間で喧嘩するのか。現地の人にそう聞くと、そのほうがたとえば鉱山の権利を持っている会社には都合がいいからだという。これも一種の植民地の名残であろう。現地の政府がいい加減というか、それどころではないという状態なら、ある種の商売には都合がいいわけである。
 喧嘩するほうもするほうだが、そのほうが都合がいいと思っているほうも、ずいぶん人が悪い。だから自然淘汰じゃないか、結局はいろいろな意味で強いほうが勝つんだよというなら、その原理は十九世紀植民地主義と変わらない。腕力が知恵に化けただけである。
 とはいえ、書生風の議論をしたって意味がない。現地の人だって、べつな意味では大人である。

植民地化を進めた国が利用した感情ってなんだろうと、最近アジアの歴史を見ていても気になる。



<254ページ 「主観的」な日本語、「客観的」な英語 より>
英語では主語を入れなければ、文章にならない。つまり文章の形式が主語を「要求する」。日本語なら、そんなものはいらない。同様にして、細かい記事の記載でも、英語はある種の具体的記述を「文章の形式として要求する」のだが、日本語はそんなものを要求しない。
 それなら日本語は不完全な言葉か。もちろん、そんなことがあるはずがない。逆に英語が要求せず、日本語が「要求する」のは、当人の気持ちである。「自分はその結果に対してなにを感じているのか」、つまり心の表現を要求する。それが文章に表れない日本語文は、まさに「心がこもっていない」。だから無味乾燥であり、読者をひきつけない。それを人によっては「日本語は主観的だ」と表現する。同時にその意味で「英語は客観的だ」ということになる。

気持ちを、要求してくるねぇ。わたしは、この要求が苦手。やっつけで感情を捏造しないようにしなければ。



<259ページ 言語という形式 より>
 言葉による抽象思考とは、いわばその自由度最大限に利用することである。その意味では、日本語は抽象思考に意外に向いており、英語は向かない。英米系の哲学が、経験主義に傾いたり、プラグマティズムに傾いたりするのは、英語という言葉の癖によるのではないかと、私は疑っている。
 日本語を使っているために、私の思考にどのような「向き」が生じたか。それは仏教思想への傾きである。生物が変化していくのを見ていると、たちまち諸行無常という言葉が浮かんでしまう。それが見当はずれかというなら、そうともいえまい。生きものは諸行無常の典型だからである。

ここは、まだわたしにはわからないなぁ。


わたしもこんなことを過去に考えたことがあったな……ということをたくさん思い出しました。ふだんいろいろな考えをやりすごしているんだなぁ。