うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

翻訳教室 柴田元幸


英文和訳と翻訳の違いをプラクティカルに説く道場の様子をテキスト化したような本。道場は東大文学部。師は柴田元幸教授。10回の講座で、毎回さまざまなアメリカ文学が題材として選ばれ、生徒訳と講師訳をまな板に乗せて「さじ加減と選択の理由」「リズムと語感」「漢語と大和言葉がかもすニュアンス」「単語が想起させるディテール」などを詰めていく。とにかく学生さんたちの発言がとても主体的で熱量があるし、なかには「あら。わたしにはこの学生さんの訳がしっくりいったのに、直されちゃった」なんてのもあって、翻訳の文章にもトーンの合うもの同士の共鳴がある。「トートロジカル」という言葉なども知らなかったので、とても勉強になりました。

この本を読んで、映画を観る意義も考えました。戦争の描写などは、やはり映像でも観た経験があるとずいぶん違うだろうと思う。わたしは私訳をして読むところまでは体力がなかったのだけど、デディスカッション部分を読む前に英文を転記して自分用のノートを作り、半分参加する気分で読みました。
最後のクラスの中で、先生がこんな話をします。

翻訳という作業は自分の哲学や趣味を主張する場じゃないからね。
 小津安二郎がこんなことを言っています。「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」。翻訳という作業は、その意味では「芸術のこと」にはほとんど関係ない。まったく関係ないっていうと語弊がありますが、ほとんどのことは「流行に従う」でいい。長いものに巻かれるのが正しいと言う場合がすごく多いですね。
(390ページ)

カルマ・ヨーガの教えって、この指摘の要素が多分にあると思うんです。芸術でもないのに「自分に聞く」ようなことをしたり、信仰心(もしくは罪の意識)もないのに「神に聞く」真似ごとをしたり。でも人と人との間に入って言葉を発する時点で「翻訳」に大切なことと同じことが、実はいちばん重要なんですよね。感情のある生き物だからこそ、長いものに巻かれるというのは偉大な知恵だと思う。



英語を読むという業の学びとして、わたしはこの指摘をメモしておきたいと思いました。

  • 翻訳において語順についての大原則は、なるべく原文の語順どおり訳す。(31ページ)
  • その場その場で役に立つやり方があり、原則同士は必ずしも両立しない。(37ページ)
  • 生きている感じがしない雰囲気の中で、すべての会話にクォーテーションマークをつけてしまうと、その人たちの声が生きている感じがしてしまう。(116ページ)
  • 動詞を翻訳したときの違和感を確認するのに、語りの視点を確認する。(125ページ)
  • please を付けたからといって丁寧になるものではない。すごーく威圧するときでも使う。(151ページ)
  • turn という言葉は翻訳者泣かせ。日本語ではいちいち言葉にして言わないような状況に使われる。(243ページ)
  • 英語はアングロサクソン語(土着の言葉)と、ラテン語起源の外来語から成っていて、それはだいたい日本語の大和言葉と漢語に対応する。(290ページ)
  • 派手な見え透いたユーモアに対して、無表情で人を笑わせるユーモアのことを deadpan という。(313ページ)
  • 昔だったら lady の反対は gentleman 。そして man に対しては woman だけど、guy に対する女性の英語って、実はない気がする。(396ページ)

日本語自体の感覚として、翻訳に関係なくメモしたいことがたくさんありました。以下は一例。

  • 逆説ではない「が」はできるだけ避けたい。「しかし」の意味ではないのに「が」が出てくるのは、話し言葉の再現ではリアルに思えたりするけど、地の文では文章に張りがなく思えてしまう。(246ページ)
  • (「the dream frightens me」を「これはまさに悪夢だ」と訳すと、という展開で)日本語としてはすごく通りがいいものが、通りが良すぎて、もしかしたらあだかもしれない。あえてやや違和感のある言い方をしているときには、ばしっと決めるより少しとまどわせるくらいの言い方でいい気もする。(252ページ)


日本語のどれを選ぶかの議論も、すごく鋭くて細かくて、まるでインド人たちみたい!

■「Popular Machines」レイモンド・カーヴァーの訳のディスカッションより。
ここで登場する「baby」の訳にどの語を選ぶかという議論で。(イニシャルは学生)

M:自分の子どもど「赤ん坊」って言う人はたぶんいないから「この子」と言ったりした方がいいかなと思ったんです。赤ん坊は baby とくらべて単語が重いので、地の文で「子ども」としたら、「子ども」も温かすぎて、ほとんど使えなかったんですけど。
柴田:その迷いは全部正しいですね。でも、自分の子どもを「赤ん坊」って言う親がいないなら、英語で I want the baby っていう親はいるかってことになる。つまりこの I want the baby という言い方がどのくらい普通か。(中略)普通、言わないよね。普通だったら名前を言うもん、このへんがカーヴァーの小説の、一見リアリズムだけどどっか変、というわかりやすい例だよね。この人たち、赤ちゃんに名前さえつけてないんじゃないかって気がする。

この後もとても細かな話が続くのですが、それがおもしろい!



こういうのがたくさん出てくるのだけど、もういっこ。

■「In Our Time」アーネスト・ヘミングウェイ の訳のディスカッションより

K:A と B どちらも「湿った枯れ葉」「濡れた枯葉」ってありますよね。でも僕はここでは「落ち葉」を使いたいんです。
柴田:同感だね。
K:でも「落ち葉が落ちていた」は変だから、困った末に「散らばっていた」としたらちょっと補いすぎでしょうか。それに「枯葉」って濡れたら枯葉じゃないと思うんですが。
柴田:たしかに枯葉は「か」の音からはじまっていることもあって、乾いている感じがするよね。やっぱり濡れたら落ち葉だろうと僕も思う。この場合の wet は 〜(以後略)。

この部分、枯れた物が落ちた葉とかそういう議論ではなくて、『枯葉は「か」の音からはじまっていることもあって、乾いている感じがするよね。やっぱり濡れたら落ち葉だろうと僕も思う。』というやりとりがいいなぁと思って。こういう会話ができるかできないかって、とくにITの仕事の分野では仕事ができる・できないの話とすごく密接だと思う。結局思ったとおりに落ち着かないにしても、選択のプロセスを納得できるかどうかの説明次第だから。「いやこれはこういうものですよね」と物質論を重ねてもしょうがないことがほとんどだから、こういうグラデーションの粒度の密な会話で溶解することはとても多い。



この本で何より大きかった学びは、翻訳というのは「身体観」「宗教観」も含めて言葉を選ぶという作業の連続であるということ。この部分はじっくりヨガ視点で感想を書きたいので、後日紹介します。


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<おまけ>
先日抽選に当たってこの柴田グルジの講義を聞ける機会があり(その予習でこの本を読んだ)、その最後にご自身がされた朗読がすごかった! 久しぶりに息をのむほどの芸を見ました。俳優や声優とはまた違う技術。訳すことと音にすることが一体化してる。

Youtubeにひとつ、朗読をみつけました。

ご本人は「もともと販売促進の一環で始めた」なんて笑って話していたけど、目を閉じると完全にその世界にもっていかれます。自分がこの声で頭の中でおしゃべりをしているのだと、そういうマナスのシンクロみたいなことが起こります。
映画「SMOKE」を観たことがあるのでなんとなく雰囲気を知っている作品だったのですが、原作のこの朗読、すごい……。特に「万引きがへたくそで〜」って話のあたりがシビれます。やっぱりことばってマントラなのですね。