うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

役割語に引っ張られずに読めるようになりたくて

少し前の話になりますが、先月ラジオを聴いていたら外国語翻訳の方々が面白い話をしていました。アフター6ジャンクション(TBS)という番組の「翻訳家たちにいろいろ聞いてみる特集 by柴田元幸岸本佐知子、斎藤真理子」というコーナー。


そのなかに「これだ!」と思う話がありました。わたしはそのときはじめて、ああこういうのを「役割語」というのか、ということを知りました。
日本語は役割語というのが豊富なのだそうです。語尾や一人称でその人を表現する。翻訳者にとっては悩ましい問題だという話をされていました。
はじめに英文翻訳者の柴田元幸さんが「(自分が)30代で翻訳を始めた頃は小説の中で60歳以上の男性が出てきたらみんな "わし" って言わせてた。でもいま自分が65歳で、誰も "わし" って言ってない。もう "わし" は使えない」という話をされたのをきっかけに、女性語尾や男性の自称(俺・僕・わたし)種別など、とても興味深い話が続きました。


英語のように「I(アイ)」しかなくそこに役割やポジションのニュアンスがない表現を訳すときには、役割語で味をつけないと日本語にならない。みなさん苦労されている。

このお話を聴きながら、わたしがハタ・ヨーガの教典を英語を介さずに読めるようになりたいと考えるに至った理由が見えてきました。
日本語の場合は聖書のような書物で You を「汝」と訳すとか、同じ日本語でも「朕は」といえば国をつかさどるような人、「余は」と言えば殿様、「拙者」なら忍者? 「某(それがし)」なんてのもあって、かなりのパターンを事前の共有認識あるいはあるべき前提知識として持っています。


これがときどき理解を妨げる。わたしはヨガの勉強を始めた頃からずっと、日本語の教典訳に「ほんとうに、こんな感じで読んでしまってよいのか」という感覚がありました。自分で辞書を引きながら読むようになってからは、何冊も読んでそれぞれの書物のクセや定番の引用元を想定しながら読むのが自然になり、何年もかけて脳内で少しずつノイズをフィルタできるようになってきました。
わたしがノイズと思う要素にはいくつかあるのだけど、大きくはこの三つです。

  • 仏教への親しみ
  • 儒教への親しみ
  • 漢詩の和訳風情に慣れてしまった言語感覚

日本語は日常にたくさん漢訳仏教でも見る単語が存在していて、勉学における師弟関係の様式は儒教がベースになっている。これが役割語に乗ってきてしまう。さらに喩えの多い記述では「如し(ごとし)」の連続。

ヨーガに関する書物の場合は尊敬語のバリエーションがちょっぴり複雑で、精神や魂を尊敬しているのか、肉体をまといながらも正しく存在できている人間を尊敬するのか、という分類があって、そこからさらに細かいニュアンスがあります。
神オブ神と言わんばかりに「主宰神」+「偉大なる」で、マヘーシュヴァラ(maha + isvara)というふうに神にはマハーをつけるけれども肉体をまとった人にはつけず、でもガンジーにはついたよ。つけるくらいだったのだよ、というふうに。(空海さんが尊敬される呼称として弘法大師、その魂を尊敬する呼称としては遍照金剛、と感覚的には似ている)


シヴァ信仰色の強いハタ・ヨーガの世界では最初のヨーギーがシヴァで、それは神。そして伝承者は聖者。そして導師はグル。
正しい導師・聖なる導師をサッドグル(sad + guru)と書く表現は多いけどマハーグルという表現は見ない。同じマハーでもそれがかかる対象によって「偉大」「至高」「至上」のどれが適切かも変わってくる。自分の今の現代語感覚だと「至上の極みシヴァ」みたいな訳しかたがいちばんしっくりくる記述もある。


そんなこんなの背景もあって、畏敬や尊敬・純粋性を示す語が豊富な言語を役割語の多い日本語で訳すと、「教え」を語る書物では妙なパワハラ感が出る。

ずっとこの日本語感覚の問題を自分の言葉にできずにいたのですが、そこには役割語の問題含んでいるように思います。

 

 

ちなみにハタ・ヨーガの教典の場合は、「おみくじ文体」のテンプレートに入れると、とたんに日本語化しやすくなります。

 

<例> 

 昼 夜 継続 練習 行為する ある 喜ばしい

 → 日夜欠かさず日々修練を行えば益多し

 

命令かつ暗示というニュアンスを持ち込みやすい「おみくじテンプレ」はとても便利で日本語化が早くできる。でも、単語の組み合わせから見えてくる妙は消えてしまいます。
上記の例で言うと最後の「喜ばしい」がそれで、似た意味でもいろんな表現があるなか、選ばれた表現に趣がある。同じ喜ばしさでも、美しさを伴う喜ばしさなのか、繁栄を伴う喜ばしさなのか、神の祝福を受ける喜ばしさなのか、神や解脱に近づく喜ばしさなのか。
古い書物はプロの伝承技術に依存します。権威ある聖典の場合は伝承が続いているけれど、ハタ・ヨーガの教典となるとコメンタリーに権威があるものがほんの少ししかありません。魅力的なテキストはたくさんあるのだけど、聖者が書いたとされる他者の創作も多い世界で…。
(これもまた、空海さんが杖を突いたら温泉が沸いたという伝説が日本のあちこちに見られるのと似た感じ)

 


日本語はもともと「何を言ったかよりも誰が言ったか」に傾きやすくできている言語なのかもしれません。