うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ニヤーヤとヴァイシェーシカの思想 中村元 著


ヨーガ・スートラの第1章6節・7節、サーンキヤ・カーリカーの4節〜6節に出てくる「pramana」について参照したくて読みました。まずは「ヴァイシェーシカ・スートラ」だけにしておくつもりが「ニヤーヤ・スートラ」にもハマってしまい、さらには毎度のことながら中村元先生の翻訳スタンスにメロメロになってしまいました。
ヨーガ・スートラの「pramana」に松尾先生と佐保田先生は「正知」、中村元先生は「正しい認識」という語をあてています。
なぜここをそんなに気にするのかというと、インド六派哲学の中でも定義がバラついているから。
この本の26ページ「七 知識論」(一)認識方法の四種 に、シビれる表が収録されていました。


▼諸学派の認める認識方法

▽学派 (1)直接知覚 (2)推論 (3)聖典の教え (4)類推 (5)意味上の帰結 (6)無知覚
唯物論
ヴァイシェーシカ/仏教倫理学
サーンキヤ/ヨーガ
ニヤーヤ
プラバーカラ派
クマーリラ派/ヴェーダーンタ

インド六派哲学の中で上記にないミーマーンサー学派については、「ニヤーヤ・スートラ」に反対論者として登場する形式で主張がうかがえる箇所があります。
以下、同著28ページの記述より。

ニヤーヤ・スートラ』(二・一・一)では反対論者(おそらくミーマーンサー学派)が認識方法は『ニヤーヤ・スートラ』(一・一・三)の認める四種類ではなくて、そのほかに伝承(aitihya)と意味上の帰結(arthapatti)と付随して成立すること(sambhava)と無(abhava)もまた認識方法となりうると主張している。


ヨーガ・スートラにある「正しい認識」の定義については、かねてより

  • 直接知覚:わたしにも五感があるのでわかる
  • 推論:(煙があるので火があるだろうと考えること)なるほど! ふだんそうやって「みなし」てる
  • 聖典の教え:ウパニシャッドを読んでも、「精神」を題材にした大喜利に見えることが……モニョモニョ(日本人なのでね)

と思っていました。
でも、その後学びを自分なりに続けて「チャラカ・サンヒター」を読んだら、「聖典の教え=正しい」とすることに対してもいろんな立場(学派)の人が突っ込みを入れていて、「やっぱそうだよね。そこ、疑問をそのままにしていいんだよね」となりました。インド人の客観議論精神さすが、とも思いました。


インド哲学は壮大な世界なので、今日はわたしが「大切なことが書かれている」「ヨーガと関連性が深い」と強く感じた要素に題材をしぼって感想を書きます。


まず、「訳」「言語」についてのこと。
1996年の本なのですが、この時点で中村元先生が以下のようなことを書かれています。2000年の直前でまだこんなことを書かなければいけない状況というのは、すごく遅れているように感じます。

<7ページ 第1章 インド論理学をいかに研究するか? 二 現在における反省 より>
 インド論理学の漢語訳は決して一定していない。翻訳三蔵の一人一人によって異なっている。ただ、日本で因明学の伝統が確立した奈良時代以後は、玄奘三蔵のそれに従っているというまでである。
 玄奘が「現量」とか「比量」とかを考え出した七世紀から八世紀にかけてのシナにおいては、この訳語は充分に意味をもっていた。しかしやがて二一世紀を迎えようとする、外国である日本においては、もはや厳密な意義を失いつつある。


<511ページ 第2章 多数のカテゴリー 一 六つのカテゴリー>
(注釈より)
padartha を玄奘三蔵が、その語源にしたがって、「句義」と直訳したために、一般インド学者のあいだでは「句義」という訳語が用いられている。しかしそのしかたは漢字をあてはめたというだけで、翻訳とはいいがたい。西洋の諸学者は 'category'と訳しているのでそれに従った。カテゴリーという語は、すでに日本語になっていると思う。それのギリシア語源まで意識してこの語を用いる人は、ほとんどいないであろう。シャンカラは padartha という語を単に「ことがら」というほどの意味に用いていることがある(Sankara ad Brihad. Up.,2,1,20.AnSS., p.295,l.12.)。

1996年の本に、こんなことが書かれてる。読み手も受動的過ぎるのだと思う。漢訳仏教用語・漢訳インド哲学用語を「外国人の」感覚で読まないというのは、ある意味不思議な現象なのだけど、わたしもインド人から英語で習って自分で訳語を探すようになるまではそうだった。薫習とか習気とかも、ナンダヨと思う。そういえば(笑)。



<374ページ 第5章『ニヤーヤ・スートラ』解明>
(5・a・4 〔定義〕論証されるべきものと実例について〜 ではじまる節の「実例」という訳語のについて、注釈で)
drstanta ─ das Beispiel. 実例。これは比喩ではない。ところがシナ・日本の因明家が実例と比喩とを区別することなく、その学的態度が明治以後にも無批判に継承されたということは、深刻な問題を提供する。そのために、一般の哲学者たちは「インドの論理学は推論ではなくて analogy である」というようなことを平気で口にする。これについては、専門家に大きな責任があると思う。

実例と比喩とを区別しないって! といまの感覚では思うけど、あたまのなかで図を描く感覚がなかったんじゃないかとも思う。



<267ページ 第5章『ニヤーヤ・スートラ』解明>
(「2-a-40 もし現在が存在しないのであるならば、いかなるものをも把握することはできないだろう。なんとなれば、直接知覚が成立しえなくなるから」の「いかなるものをも把握することはできない」の部分で用いられる「sarvagrahanam」という単語についての注釈で)
sarva を「一切」と訳すことが日本のインド学者のあいだで因襲化
しているので、こういう場合に「一切を把握する」と訳すのは、文字に即しているようで、実は論理的には誤訳である。(誤訳、の二文字に強調の点付き)ルーベンが訳すように " nicht moglich, irgend etwas zu erfassen" でなければならぬ。 the non-apprehension of everything(ChG).
肯定判断の場合には sarva を「一切」と訳してよいが、否定判断の場合には sarva を「一切」と訳すと誤訳になる。「いかなるものをも」と訳さなければならない。わたくし自身も実際上こういう誤訳を犯してきたような気がするので、ここに明記しておきたい。

ここは、ジーンとくる。すてきな先生だなぁ。



<583ページ 第7章 普遍と特殊 六 個物 ── 極限における特殊 より>
 ここで注目すべきことは、インドにおいて、もっとも客観主義的な立場に立って自然哲学的体系を組織したヴァイシェーシカ哲学においては、個別の観念がないということである。厳密な意味で、<個物>という概念を表示しなければならないとすると、ヴァイシェーシカ哲学では<極限における特殊>(antyavisesa)ということばを用いなければならない。
 ここで、「個物」、さらに「個人」の意義について少し考えてみよう。
 個物を普遍に俗世占めるのが、インド人の思惟方法の特徴の一つであるが、「個物」は西洋の言語でいうと、 the individual である。ところで<インディヴィデュアル>という英語がはっきりしていないので、しばしば論理的な混乱をひき起こす。"Socrates is human" というときには、主語は特定のインディヴィデュアルを指示し、述語はそのインディヴィデュアルがもっていると主張されるある属性を指示している。この場合、<インディヴィデュアル>というのは "an individual human being" のことであり、<インディヴィデュアル>という語の論理的意義はそれとは異なっている。『<インディヴィデュアル>という語は person を指示するために使われるのみならず、いかなるもの(thing)、── 国、都市、ないし属性を付与させるだけの意義ある何ものでも、実際に指示し得るものとして使われるということを明らかにしなければならない。』これが論理的な意味における<インディヴィデュアル>という語の意義である。── は『インド人の思惟方法』の英訳刊行に当たってわたくしが付した説明(英文)であるが、邦文ではこのようなことをわざわざことわる必要がない。邦文では論理的な意味の<インディヴィデュアル>を「個物」といい、人間としての<インディヴィデュアル>を「個人」と訳すからである。この点では英語の表現のほうがあいまいであり、日本語における表現のほうが正確なのである。

日本語は言葉が少ないなぁと思うけど、こういう逆パターンも、たしかにある。わたしは「みなす」とか「○○ってことにして」などの表現は、インド哲学のはなしをするときに使いやすいと感じています。「as」を使って話す感覚よりも、インドのニュアンスに近いと思う。


インド哲学を学ぶには、コンテキストをドライに見る文章感覚が必要なうえに、儒教的な教訓やエエ話を好む日本人に「そっちへ行きたがる習性は知っていますが、そういう話ではありません」というスタンスが重要だなと最近つくづく思います。わたしはMなのでこのラインで葛藤するのが趣味(笑)。そういう仲間がもっと増えたらいいなぁと思っています。




ここからは、「ヴァイシェーシカ学派のアートマンとマナス」についての説明部分をいくつか。
わたしはインド思想のさまざまな主張に触れるとき、「アートマンとマナスをどのように設定しているか」に注目するのが近道と思っています。

<546ページ 第4章 人間論 二 心の問題 ─ アートマンと意 (二)意(マナス) より>
 ヴァイシェーシカ哲学によると、アートマンは時間的にも空間的にも限られていないから、もし直接に対象と接触するなら、一切の対象が同時に意識されることになる。しかし、こういうことが起こらないのは、内官としての意(マナス)があって、アートマンの活動を制限しているからである。この意(マナス)は、アートマンと最も密接な関係がある。アートマンは、意によって外的事物を知るのみならず、アートマンの属性(性質)をも知りうる。マナスは原子大であるがゆえに、それぞれの刹那に一つの対象を把握することができる。

マナスがアートマンを制限する。アートマンはマナスによって外的事物を知る。たいへんすっきりしております。



<530ページ 第4章 人間論 二 心の問題 ─ アートマンと意 冒頭>
 ヴァイシェーシカ哲学では、特に「心」(citta)という原理を立てることはない。それに相当するものは、それぞれ実体としての「アートマン」および「意」(manas)である。
 さてこれらは、主として玄奘三蔵の訳語である。ところが、『金七十論』(七・二七)では manas を「心」と訳している。manas を「こころ」と訳している例は、漢訳仏典のうちに数多く存する。これらの事例について見る限り、漢字を基準として議論を進める限り、議論の正確性を期待することはできない。
 しかしまた atman とか manas という語も決して意味内容のはっきりした術語ではない。<ヴァイシェーシカ哲学におけるアートマン>とか<ヴァイシェーシカ哲学におけるマナス>とかいうふうに限定を付することによっていくらか正確性を期待することができるだろう。

わたしは常々「ヨーガは citta にまとめすぎ!」と思う。「○○は、○○と同じですか?」ときかれるときは、その紐付けの背景を実はちゃんと聞きたいのが普通だし、「○○は、○○なんですね!」という語調はたいへん雑なのです。(『金七十論』は玄奘訳じゃないけど真締訳をウェブで読むことができますよ。いい時代!)



<617ページ 第10章 一 実践の目標 より>
 ヴァイシェーシカ学派によると、ヴェーダ聖典はいちおう価値のあるものであるが、しかしヴェーダに従って行動したならば、ただ果報として生天を来たすのみであり、輪廻の範囲を脱することができない。解脱のためにはヴァイシェーシカの六カテゴリーの研究とヨーガの実修とを行われなければならない。この六カテゴリーの本性を真に理解するならば至上の幸福すなわち解脱が得られると説くが、しかし心が乱れていては真実の理解が得られないのでヨーガの実修をすすめるのである。アートマンがくらまされているのは意がはたらいているためであるから、意を制するヨーガ(yoga)の行を実践の中心とした。ヨーガによって前世からの余力すなわち不可見力を滅ぼしつくしてアートマンが身体と合することもなくまた再生もしないことになると、解脱が実現する。その境地においてはアートマンは何らの活動をなさぬ純粋の実体として存在する。

6カテゴリーというのは【実体(dravya)、性質(guna)、運動(karman)、普遍(samanya)、特殊(visesa)、内属(samavaya)】、「不可見力」は漢字の印象に引っ張られやすいですが adsrsta。物理的に、端的に「可視されていないけど存在する力」のことで、磁力とか慣性の法則とかそういうのに似たもの。前世からの余力というと、ヨーガ的には samskara のようなものを想起してしまいますが、ヴァイシェーシカはもっと「理科部の男子たち」みたいな感じでサーンキヤに近い。その人たちが「実習メソッドはヨガ部の人たちのやってるあれだよ」と言っているような関係性で、ヨーガがある。



<618ページ 第10章 二 死 より>
ヴァイシェーシカ・スートラ』によると、アートマンは本来唯一で、その本性は清浄であるが、それが日常生活においては個我としてくらまされているというのである。〔この点では、ヴァイシェーシカ哲学にも多分にヴェーダーンタ学派のうちのシャンカラの学系の思想と共通な性格がある。〕そのようにくらまされているのは、意(manas)がはたらいているからである。ゆえに意を制することを修行の中心において考えた。これを<ヨーガ>と称する。

アートマンの本性は清浄」というのはサーンキヤにおけるプルシャそのもので、「くらまされているのは、意(manas)がはたらいているから」というのも、サーンキヤとよく似ています。でも、パタンジャリさんは第2節で「マナスのはたらきを死滅することだ」としていない。ヨーガはサーンキヤヴァイシェーシカと絡めて学ぶとたいへんおもしろい。



<623ページ 第10章 三 解脱 より>
 ヴァイシェーシカ哲学の立場から見ると、不可見力とはアートマンを身体と結合させる力である。ところで人が六カテゴリーに関する知識を得て、ヨーガを修行すると、アートマンが身体または意と結合することもなくなり、したがって再生することもなくなる。これが真の解脱である。

ヴァイシェーシカ哲学は、見えない力をものすごく物理的に語るところが、めちゃくちゃクール。「ハートはあるけど非人情」って感じがたまりません(萌えてます)。



<625ページ 第10章 三 解脱 より>
(注釈、解釈の違いを説明する部分)
 『アートマンのもろもろの動作に関して、解脱が説明された。』
しかしこれだけの文章では、スートラの趣意もはっきりしないし、また諸註釈の文章もいろいろである。
 『アートマンとは生命(prana)のことである。その動作が説明されるのであるから、解脱が説明されおわったことになる。』(タクル刊古註)
 『アートマンとは意(manas)のことである。意の諸動作に関して、それが無いときに、結合もなくなり、そして〔結合も〕現われ出ることはない。それが解脱である。このように解脱が説明された。』(チャンドラーナンダ)
ところが『ウパスカーラ』の説くところは、宗教的実践を強調している。『ウパスカーラ』はこのスートラを、
 『アートマンのもろもろの動作(=宗教的修行)の起こるときに解脱の起こることが説明された』
と解する。

ここは、同じスートラを註解する視点でもこれだけバラつきがあります、という事例。「どれが正しいのか」ではなく、「どのスタンスにも都度都度チャンネルをあわせることができる」ことが重要なんだな、とつくづく思います。


さきほど「ハートはあるけど非人情」と書きましたが、ヴァイシェーシカ哲学もサーンキヤ哲学同様、夏目漱石が望んでいたであろうスタンスに近いものに見えました。
ニヤーヤ学派のパートはチャラカ・サンヒターにあるような議論スタイルが興味深い内容でした。ニヤーヤ学派については、後日ダルマキールティという哲学者にフォーカスして感想を書きます。