うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

翻訳教室 柴田元幸(身体観、宗教観ごと翻訳する技術)


この本全体の感想は昨日書きました。今日はこの一連の授業録のなかで大きな学びとなった、ヨガについて語る場面でも同じことが言えると感じた箇所を紹介します。
これまで「ヨガの学びはデッサンと似ていて、指導側に立つ場合は翻訳家みたいなもの」とぼんやり思っていたのですが、この本を読んでいろいろな思いがスッキリしました。どういうことかというと、引用紹介したらすぐわかる。(これがこの本のすごいところ)


■「Invisible Cities」イタロ・カルヴィーノ の訳のディスカッションより(イニシャルは学生)

V:mind が学生訳では「記憶」になっているんですけど、先生が訳例で「心」にしているのはなぜですか?
柴田:それはとてもいい質問ですね。まず mind の反対は何か、を考えると……何だと思いますか? mind という言葉の反対語。まず body だよね。精神と身体。これは誰でも思いつく。もう一つは、heart。これも mind の反対語なんですね。mind は「頭」で、heart は「心」です。つまり mind というのは、頭の中でもわりと理知的な部分を指すんですね。情の部分ではなくて、知の部分。
 だから僕の訳の「心」というのは、mind 本来の意味から少しずれている。「頭」とか「脳」とやるのも一つの手なんですけども、この文章全体が非常に優雅なので「頭」とか「脳」という言い方がどうも合わない。それで「心」にしたわけ。一番無難な訳は「精神」なんだけど、「精神」という言葉はいかにも翻訳調で貧しく響きますよね。ここでは情の部分か知の部分かはあまり問題ではないだろうと思い、苦肉の策で「心」にしているわけです。
 学生訳も苦肉の策で、頭の働きのなかで、わりと記憶の部分の話だろうってことで「記憶」というふうに限定しているわけだ。どっちも意訳だけど、「精神」という、正しいけど焦点を結ばない訳語は避けたいという理由から言葉を選んでいるという意味では同じだね。

このやり取り、しびれます。すでにかなりヨガ的ですよね。ほんわかしたヨガTTCの哲学クラスよりかなり斬り込んでます(笑)。
これは、「manas から atman 以下までを丸めちゃったパタンジャリの第一章・二節をどう読むか」という話とすごくよく似ている。というか、まるで同じ。ここは「And the mind refuses to accept more faces, more expressions 」という英語の部分を訳すところでのディスカッションなのですが、わたしは学生さんの「記憶が受け入れを拒む」という選択に「あああああ、それ、いまあなた、いい葛藤だわよ」と悶絶しました。この mind は atman ではないので、柴田グルジが「貧しく響く」といっているのは、翻訳調だからという理由だけではないですね。


あまりにいい題材なので便乗しますが、このケースをいつもわたしが読書会でやる分解のしかたでいくと(インド式)
(意識は放っておくと下へ流れますので、こういう図になります)
======================

atman:(日本語だとこれが「精神」になってしまう。んー)
 ↑
buddhi:待ちきれずにとりに来てる。40%くらいまで降りて迎えにきてる感じ。
 ↑
 |★ここ! smrti(記憶)する前に vasana(刻み方)が動き方で少し迷ってる。
 | manas がベクトルを示さないから。学生さん、ここを読んでる!
 |
manas:認識してる。でもさっきまでここもちょっと拒んでた。
 ↑
citta:感情は動いてる。動きまくってる。どんより。
 ↑
indriya:五感で情報キャッチ。

======================
なので、学生さんが「記憶」という単語を持ち出したのが、個人的にすごくシビれました。この学生さん、感度いいなぁ。と。
柴田グルジが『僕の訳の「心」というのは、mind 本来の意味から少しずれている。』というのは、たぶん日本人がこの描写を読んだときの感覚は citta のほうに近いほうへ引っ張られるでしょうという背景があるのだと思います。「知」とか「覚」にいたる語彙の貧しい日本語の特性がよく出た議論。



次。
「神」と「人」の関係を確認するディスカッションも、すごくおもしろい。

■「In Our Time」アーネスト・ヘミングウェイ の訳のディスカッションより(イニシャルは学生)

N:believe in を先生は「あなたの御力を信じて」とされてますが、力だけに限定したくなくて、神様が頂点に立つ宗教を信じるくらいの意味にしたい。I believe in you のあとに I'll tell every one in the world that you are the only one that matters とあるので、そっちで宗教的な力を信じる言い回しを出せばいいから、とりあえず私は believe は「信じる」とだけ訳して、one that matters を「我々に意味を与えてくれる存在」と補って訳したんですが。
柴田:それは知的に操作しすぎじゃないかな。この登場人物、そんなに頭よくないから。「我々に意味を与えてくれる存在」という訳の知的レベルと、you are the only one that matters という原文の知的レベルはだいぶ違う。matters は「意味を与えてくれる」よりも、単に大事っていうこと、大事なのはあなただけ、ほかのものはどうでもいいっていうことです。

この続きで神にすがる感じのニュアンスの話題に移っていきますが、このやりとりでは「大事」の意味の説明がいい。この指導の流れ自体が作品のメッセージを踏まえていて、作品自体が人間はそんなに知的に自分をコントロールできない、しないもんだみたいな結びになっている小説の訳について、この議論がされているのがおもしろい。「この登場人物、そんなに頭よくないから」のひと言になっているけど(笑)。




同じディスカッションから。

P:B は jesus とか christ とかを「かみさま」と訳していますが、 Christ イコール God なんですか?
柴田:いや、そうではないです。ただ、jesus christ を「かみさま」と訳すのは直訳としては間違っていても、翻訳としては正解になりうると思いますね。要するに、切羽詰ったとき真っ先に祈る対象ってことでさ。
P:日本語でイエスとかキリストとか呼び分けると二人いるみたいに思えるので、どっちかを「神様」にした方がいいかと思って、僕は「キリスト」の方を神様にしたんです。
柴田:でもさあ、「イエス」と「神様」にしたら、もっと別々になっちゃうじゃない?
P:まあ、イエスを神様とも呼ぶかな、と。
柴田:なるほど。でもやっぱりイエスはあくまでも神の子だからさ。
P:でもこういう場合では、イエスも神様もそんなに違わないのかなって。
柴田:違わない。たしかにそのとおり。でもそれだったら素直に「イエス」と「キリスト」でもいいんじゃないかな。最初に「イエスキリスト様」と言っているので、山田太郎みたいに姓と名を一緒につなげて言ったあとで「山田君」「太郎君」と言うみたいなもので、「イエス」と「キリスト」にばらして言っても大丈夫じゃないだろうか。
Q:普通は大文字になっているところがここでは jesus christ って小文字になっていて、イエス・キリストが日本人の「神様仏様」みたいに安っぽく出されている。その感じをどう出すかをいろいろ考えたんです。jesus だったり christ だったり、変えているのもこの安っぽさの一つだと思うので、イエスとキリストはそのまま出して、あと先生の訳と同じにイエス・キリスト様の間に「・」を入れないで「イエスキリスト様」にすることで安っぽさを出していく方が、神様とかを使うよりいいんじゃないかと思ったんです。
柴田:なるほど。「イエスキリスト様」っていうのは、なんか祈り慣れていない感じがして、いいよね。「イエス様」は言うけど「キリスト様」とはあんまり言わないわけで。日本語としてわざとぎこちない方が、すごく場当たり的に祈りの言葉が出ている感じが伝わりますよね。
 学生訳Bはここが面白いから選んだんです。「ああかみさまぼくをここからにがしてください。かみさまどうかぼくをたすけて。かみさまおねがいおねがいおねがいかみさま」、すごく幼児化しているわけ。これをどう考えるか。つまり、原文は特に幼児化している感じはしない。じゃあこの訳はまずいのかっていうと、それと似たような問題でこのあいだちょっと面白いことがあったんです。(以後も話は続く)

といって面白いエピソードを話されるのですが、気になる人は本を読めばいいとして、この「祈り慣れてない」のディテール分解が深い。そして幼児化した文章訳を提案する学生もすごい。



聖書に関連して、最初の授業でこんな話もありました。

■「Hometown」スチュアート・ダイベック の訳のディスカッションより(イニシャルは学生)

J:locust っていう虫は、学生訳は「セミ」ですけど、先生は「イナゴ」って訳してるんです。それはどうしてですか。
柴田:ここは絶対「イナゴ」です。どっちも意味しうるんだけど、なぜ「イナゴ」に決められるかというと、ここで場違いに、ゆえに効果的に喚起されているのは、聖書のイメージだから。旧約聖書の「出エジプト記」で、ユダヤ人を虐待したエジプト人に罰があたってイナゴの大群が押し寄せる。ちょっと読んでみると、

(中略)

穀物とかみんな食べちゃうわけ。学者に言わせると、実はイナゴは大群を作って飛び回ることはないらしくて、実際にそんな生態があるのはトノサマバッタサバクトビバッタしかいないと言うんだけど、聖書ではイナゴの大群と言っていてそれで何百年やってきた。で、聖書は事実に勝つ。ここの whine of locusts にも明らかに聖書的な響きがあるから、「イナゴ」ですね。

こんなのから始まるんです、この本。おもしろいでしょぉ。この「聖書は事実に勝つ」のところは、クリシュナが "われはウパニシャッドの作者" と言っている(ギーター 15章15節)のを思い出して、ずっと「そこまで言うかー」と思っていたけど柴田先生が「聖書は事実に勝つ」と言うならそれでいいやと思いました(笑)。




最後に、これはヨーガ用語も同じだー と思った部分。「Heaven」レベッカ・ブラウン著 の説明で、柴田グルジがこんなお話をなさる。

happy という言葉はめったに、「幸福」と訳すべきではありません。たいてい、一時的な happy は「嬉しい」、「喜んでいる」が正しい。He was very happy when he received the gift. 「プレゼントをもらってすごく喜んでいた」とか、そっちの方がずっと多いです。ここはその happy をこ「幸福」だと訳してもいいと思える、けっこう珍しい例です。「満ち足りている」という訳し方でも構いませんけどね。

ここをおもしろいと思った理由なのですが、ヨーガ・スートラでもギーターでもよく出てくる「スカ」って、よく「ドゥッカ」とセットで出てきて「幸不幸」と訳されたりするのですが、日本語で「幸福」かっていうとそうでもないニュアンスの場面が多い。善悪の善のニュアンスのこともあれば、祝福されているというニュアンスもあれば、豊か・恵まれたという流れのときもある。そこには当然身分(カースト)の背景もある。「幸不幸を平等に見る」って訳しちゃうと、もうこの文字列でかなり演歌っぽくなりすぎるし、「楽」のほうが実際近いと思うのだけど、そうすると日本語の自然さのために「苦楽」という単語をあてることになり、これまた演歌っぽくなる。サンスクリット語はおもしろいもので、ネガティブな心境に至ることを説明するワードはおそろしくたくさんあるのに、人間界の「幸せ」に相当する語が少ない。で、解脱とか涅槃とかそっち方面のワードはいっぱいある(笑)。日本は現世利益的なので、幸せを分解するワードが多いように感じます。ほとんどは擬態語だけど(ワクワク、ルンルン、ウキウキ、キャッキャ、いい意味でのゾクゾク など)



しかしまぁ、世の中すごい授業ってのは、あるところにはあるもんなんですね。
インドで受けた哲学授業よりも興奮しました。

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<おまけ>こんなの見つけました! 
柴田元幸(FMフェスティバル 未来授業)
「第1回」でいきなり、「翻訳は快楽伝達」って、名言!
「第3回」でポール・オースターのこと語っていらっしゃいますよ!>オースター・ファンのみなさま