うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「アルタ・サングラハ」(バラモンの精神界 インド六派哲学の教典 より)


中村元先生の選集「ミーマンサーと文法学の思想 インド六派哲学」を立ち読みしてみたら壮大すぎて、こりゃ根本経典のほうで語彙のトーンをつかんでおいたほうがいいかなと思って探したのですが、「ミーマーンサー・スートラ」のズバッとした日本語訳が見つからない。12章もあるらしいので、ないかぁ。と半ばあきらめつつ、でもなんとか感じをつかみたい。
そんななか出会ったのが「バラモンの精神界 ─ インド六派哲学の教典 訳・解説 湯田豊」という本でした。このなかに、ミーマンサーの綱要書「アルタ・サングラハ」の訳が収められています。ラウガークシ・バースカラ(Laugaksi Bhaskara)によって、おそらく17世紀ごろに書かれたであろうとされる、祭式の入門書。ミーマンサーには「プールヴァ・ミーマンサー」といと「ウッタラ・ミーマンサー」という二つの系統があるのですが、この本は前者のほうにあたります。
この書は言葉のエネルギーについて詳述しており、文法学のような要素もある。なるほど、だから中村先生の選集も「ミーマーンサーと文法学」ということになっているのだなぁ、ということがわかりました。
これを読むと、「言葉」を「発すること」に、かなり意識的になります。

第2章「ダルマの定義」より 5項の後半 例を出しながらの記述と、次の6項>
5:(前略)yajeta「人は祭るべきである」というこの場合には、(この単語には)yaj(yaji)という語根および(-ta という)接尾辞にも、動詞(の語尾)であるものおよび願望法(の語尾)であるものの二つの部分がある。それらの中で、動詞(の語尾)であるものは十の時制および叙想法に共通するけれども、願望法(の語尾)であるものは願望法(の語尾)だけに属する。
6:(-ta という接尾辞に属する)二つの部分によって、まさに効果を生むエネルギーが述べられる。効果を生むエネルギーとは、まさに生じようとしているものの生起に適している、生起させる人の特殊の活動である。それには、語の効果を生むエネルギーおよび目的の効果を生むエネルギーの二種類がある。

「語の効果」と「目的の効果」を分けるのは「おお!」となる。あとでマントラのことも出てきます。


<第3章「命令」より 26項の後半と、次の27項前半>
26:(前略)行為の主体(=主語)は示唆(aksepa)によって理解されべきである。
27:なぜなら、効果を生むエネルギーは動詞によって示されるからである。しかし、効果を生むエネルギーは行為の主体(=主語)なしには不可能であるゆえに、それは行為の主体(=主語)を示唆する。(後略)

行為の主体を棚上げした発言をバッサリやらない日本語コミュニケーションに疲れてきたこのごろなので、妙に癒やされました。



ラクリティ、ヴィクリティという語が、ミーマンサーだとこう使われる、というのもおもしろい。

<第3章「命令」より 30項の前半>
祭式の原型(prakrti)とは、全部の補助的な事柄に関する規定の見いだされる(祭式の基本的な形態である)。例えば、新月祭および満月祭などのようなものである。それらの(祭祀に関するヴェーダの)文脈において一切の補助的な事柄が述べられているからである。(祭式の原型の)修正(vikrti)とは、一切の補助的な事柄に関する規定の見いだされない(祭式の派生された形態のことである)。サウリヤ祭(スーリヤ、すなわち、太陽に捧げられる供犠)などのようなものである。そこにおいては(すなわち、修正の場合には)、いくつかの補助的な事柄に関する拡大解釈の方法によって(祭式の原型に関する説明において)補助的な事柄が達成されるからである。

ホンモノ・ニセモノの二元論で斬ることは、こういう「動き」やそのグラデーションを認めないってこと。こういう「はたらき」や「機能」について考えるとき、日本人はインド哲学になじまないだろうなぁと思う。


<第4章「マントラ」より 53項>
マントラ(祭祀の決まり文句)とは、(祭祀の)実行に内属している事柄を思い出させるものである。そして、それらはこのような事柄を思い出させるものとしてのみ有意義である。しかし、それらの暗誦は目に見えない結果を目的として有しない。目に見える果実が存在するのに、目に見えない果実を想定するのは不適当であるからである。しかし、目に見える目的を思い出すことは他の方法でも可能であるからといって、マントラを暗唱することは無意味である、とこのようにわれわれは言うべきではない。それはマントラによってだけ思い出されるべきであるという、固定的な命令に基いているからである。

固定的な命令ありきのものは、果たして祈りか。という問い。「音声を発しているあなたが、いまここにありますが、それ以上なにか?」と逆に問い返したくなる問い。わたしがクラスで「ソーラン節のような感じ」という理由も、こういう背景があります。

「歌」としてではないマントラについて学びたい人におすすめです。