わたしは、魔法というのはかけられる側の方がすこし多く持っているもの、と思っています。洗脳といわれるものも同様に、信じる側の方がなにかをすこし多く持っているのではないかな、と思っています。
先日、オウム真理教について追うテレビ映像をYoutubeで見ていたら、洗脳される人について語られる場面で「純粋なので信じた」という表現を耳にしました。
純粋というのはゼロ点なので、「不純だから信じなかった」はあっても、「純粋なので信じた」になるのか、どうか。白黒の二元論を超えて「透明」もある前提で話すと、そうはならない。
映像を見ているうちに、思ったこと。
高学歴で出世できなかった人に向けて行われている
あなたが評価されないなんて
まわりの人の頭がおかしいんじゃないですか
あなたの優れていることがわからないなんて
ありえないですよ。
わたしには、わかりますよ。
というアプローチ。
「わたしには、わかりますよ」は、たぶん洗脳ではありません。営業トークの基本。
「シジューになると、たまに電車のつり革が、きついですよね。わかりますぅ〜」って、わたしもやってます。
問題は
「まわりの人の頭がおかしいんじゃないですか」のほう。
で
「わたしには、わかりますよ」だけを取りに行っているうちはいいのだけど
「まわりの人の頭がおかしいんじゃないですか」を、認めるのは簡単すぎる。
「まわりの人の頭がおかしいんじゃないですか」というパスを受けてゴールしているのは、自分なんだよね。
たしかめもせずに、シュートしちゃう。
それオウンゴールだよ!
って言うタイミングもけっこうむずかしい。
「洗脳されて、バカじゃないの?」って、言えないんだよねぇ。
オウンゴールした人に、「オウンゴールしましたね」っていうのと近いから。
たぶん、その人には、パスがあればよかったのだと思う。ちょっとゴールできそうなパスが。
小さな成功体験をできそうなパスを、そっと出す。
そのくらいしか、できない気がするなぁ。
わたしは、洗脳された人が純粋だとは思わない。不純だともバカだとも思わない。
誰にでもある運動神経のはたらきかたのようなものだと思っています。