うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「A」マスコミが報道しなかったオウムの素顔 森達也 著


「メディアとの付き合い方視点」「宗教教義への向き合い方視点」のふたつの感想を持ちましたが、前者のほうは他の森達也さんの本の感想(「世界を信じるためのメソッド ぼくらの時代のメディア・リテラシー」「世界が完全に思考停止する前に」)で同じようなことを書いてきたので、今日は後者の視点で書きます。
この本はドキュメンタリー映画「A」の撮影中に起こったこと、そこで著者が感じたことが書かれています。映像はテキスト以上に刻まれる印象が痛烈なので、さきに本を読んでよかったかなと思っています。わたしはこの本にある、以下のコメントにたどりつく経緯の部分を興味深く読みました。

もしも悟りなるものが実在するのなら、その助走となる世俗を体験することは必要だと僕は思う。しかし残された信者だけでなく、既に逮捕された幹部クラス一人ひとりにも、濃密な人生体験を背景に滲ませる人物はほとんと見受けられず(一人だけ例外はいる。麻原彰晃だ)、その意味で僕はオウム真理教という宗教組織のありかたには微妙な違和感を持っている(しかしこの傾向は、何もオウムだけに突出しているわけではない。効果を求めて組織となったとき、ほとんどの宗教はこの矛盾を内包する)。
(彼らが今もオウムに留まり続ける理由 より)

ここに至る流れはとても深い読みどころです。



「八 諦観──成就しないドキュメンタリー 社会に蔓延するルサンチマン」という章のなかにある著者の言葉に、二つ、メモしたい部分がありました。

大切なことは洗脳されないことではなく、洗脳されながらどれだけ自分の言葉で考え続けられるかだ。

情感の否定はオウムの教義だけに突出した概念ではない。すべての宗教にこの素地はある。その意味では非常に宗教的な空白がこの事件の根幹にある。

「非常に宗教的な空白」を語れるところまで学んだら、やっとヨーガを学んだ日本人になれるのでしょう。



この本を読みながら、途中から「わたしがオウム真理教の広報だったら、世間に修行の説明をどう翻訳したか」というモードにスイッチが入っていました。オウム真理教の教義がヨーガと混同されたといわれてはいるけれど、背景にヴェーダのあるパタンジャリの教義よりも、チベット密教ヨーガを日本で行なうことをめざした。それは「カルマ」という単語の用法に如実に出ています。

こういう見方をしていくと、麻原彰晃という人に聞いてみたいことがたくさん出てきます。そして教義の根幹があまりにあっさり「修行」というワードで片付けられていて、アカデミックな問答がされていない様子なのが気になりました。ヨーガはプラクティカルな宗教なので「いいからやれ」なんだけど、「古い聖典を読むべし」のところが抜け落ちている。
これはイスラーム侵略以後に盛隆したハタ・ヨーガを下敷きにしているからそうだといわれたらそれっきりだけど、それにしてもヨーガの心理学と哲学の探求がすっぽり抜け落ちている。

信者の言葉の部分を読むと、ツッコミどころ満載です。

「すべてはマハームドラーですよ」
 尊師への帰依は、何が起きても絶対に変わらないと断言した後に、彼はぼそりとつぶやいた。オウムの信者から頻繁に飛び出すこのサンスクリット語の意味を、正確に翻訳することは難しい。無理に僕らの語彙で訳せば「試練」という単語になる。要するに何が起きても、試されていると考えれば疑惑や迷いは生まれない。
「……ということは、一連の事件は麻原が信者を試しているということ?」
「信者だけでなく、日本人全体かもしれないですよ」
「試すために毒ガスを撒いたということですか?」
「何が起きても不思議はないんです。でも心を動かさずにいれば、きっとすべてがわかる日が来ると思います」
 大学の入学直後に彼は出家した。念願叶って合格した大学のキャンパスを歩きながら、他の学生たちの姿に、こんな人たちが明日の日本を作るのかと絶望したという。
(「すべてはマハームドラーですよ」より)

切り出して日本語の中に混ぜて頻繁に利用する語として「マハー・ムドラー」という語がセレクトされている時点で、不気味。わたしは「バガヴァッド・ギーターは聖書としても読めますが、ブラック企業の作り方マニュアルにもなりえます」というスタンスで話すことがあるのだけど、そうすると「そんな面を知りたくなかった」というリアクションをする人がたまにいます。
わたしはそう感じる心と、オウム真理教に傾倒する心はわりと近いプログラムで動いていると思っています。




このブログはオウム真理教の人たちが使うサンスクリットと同じ用語が普通に登場しているけど、「あいつはオウムではないか」と言われたことはありません。これが15年前だったら、状況は違ったのかな。ネットで世界がつながって、ヨーガの教義に触れたことのある一般人が自分の言葉で語るようになったとき(まさにわたしがそのひとりですが)、この事件の見え方はかなり変わる。変わらないほうがおかしい。

宗教の内側と外側では言語が違う。これは僕の直感だ。一連の事件への教団側の見解を聞くにつけ読むにつけ、「単なる言い逃れ」や「見苦しい言い訳」などの、マスコミが好んで使う修辞ではかたづかない、もっと絶望的で本質的な乖離を僕は感じてきた。荒木浩はその言語の差違に狼狽え、困惑している。これは初めて彼をテレビ画面で見たときの僕の確信だ。オウムと社会という二つの言語を使い分けねばならない広報部の責任者という立場に突然追い込まれ、その乖離と距離をおぼろげながら自覚して、その狭間でずっとあがき続けている。
(翻訳者に成りきれない苦悩 より)

「もっと絶望的で本質的な乖離」は、オウム真理教内部でも翻訳が必要だったうえに、社会に対しては加えて翻訳が必要な点にあると思います。以前、日本は宗教に権威のない国であるということを書きましたが、古典を学ぶときに欠かせない「コメンタリー文化」も定着していない。いくつもの解釈を読んで自分も解釈をしてみることをせず、「どの人の解釈が正しそうか」という選択のために情報を集めようとする。わたしはこれが、「もっと絶望的で本質的な乖離」に含まれていると感じます。




信者の言葉の用法には、気になるフレーズばかりです。

「カルマ落としてもらえていいですね」
 こんな報道の洪水に包囲される日々をどう感じるか? と聞いたときの一人の若い女性信者の答えだ。アイロニーの気配は微塵もない。
(「ミルクティです。ミルクにティを入れてます」より)

カルマという単語には、「因果」「業」「行為」という意味があって、この真ん中の「業」の意味で使うのがもっとも玉虫色。「今わたしは因果という意味で使っている」「今わたしは行為という意味で使っている」という客観視点を持たずに社会の中で使うのは、実はとても危険な単語です。



以下は、思わず笑った部分。

 やっと訪問を許された代々木のワンルームマンションで、山本は僕たちに「サットバ・レモン」と名づけられたオウム特製の飲料水を振る舞ってくれる。
(超えた一線、超えられぬ一線 より)

ツッコミどころが満載ですが、同じ気持ちを著者は早い段階で抱いていて、「彼らの本来の資質である警戒心の薄さと無防備さ」という表現をされています。これは宗教の内側の空気感をよくとらえた表現だなぁと思いました。




人にはもともと「考える力」があるのだけど、なにかをまとうことで思考停止している。
「しんどいから思考停止する」という心のはたらきを認めていないところに根源がある。ヨーガの聖典やギーターにはこのことについての示唆がたくさんあるのに、なんでこうなった。わたしはヨーガをする人から見たオウム真理教の教義へのツッコミどころはそこにあると思っています。
宗教は考えることを放棄させてくれるものではなく、生きる知恵を授けてくれるもの。なのに、自分の人生のドライバーであることを放棄することと、グルへの帰依を混同する人はとても多い。それはオウム真理教だけでなく日本の仏教にも古くからある。大きくなっていく企業の文化形成でも同じことがいえる。

ヨガの本を読むより森達也さんの本を読んだほうがいいという場面は、日常でとても多いです。というわけで、かなりおすすめです。


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