うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

オウムという現象 ― 現代社会と宗教 渡辺学 著


ヨガの魅力にとりつかれたように学んでいるとき、わたしは "このエネルギーは、オウム真理教に入信した人の心根にあったものと同じだろうか" と思ったりします。そして学べば学ぶほど "ちがうな" とも思うようになりました。
それでも、わたしがその活動をテレビで知ったのは10代の終盤で、進路に悩む年頃。契機さえマッチしていたら入信していたかもしれない。人間には、服従・帰属願望があるから。この本はそういう願望に対しての警告になっていて、盲目になるとリテラシーという概念すらなくなってしまう、その流れをリアルに感じやすく書かれています。

人間はむき出しの現実と直面することには慣れていない。何らかの物語の力によって過酷な体験に意味づけをすることによって生きてきた。歴史的に宗教はそのような役割を果たしてきたといっても過言ではない。
(はじめに より)

いまだって、代替の物語は生まれ続けている。持たない暮らしもミニマルな暮らしも、無執着へ向かう道や脚色や文字列が違うだけ。一度すべてを咀嚼してみて、青汁じゃないけど「う〜ん、まずい!」というコメントをできるくらい冷静でありたい。



以下はいま読むと「信じたのか…、これを…」と思うような内容ですが、信じたい人には嘘でもよかったのだと思います。

 麻原は、特異な<霊=術>、つまりシャクティーパットを施すことによって
弟子たちの修行を劇的にはやめることができると主張した。具体的には、それは、相手の眉間に指を当てて「霊的なエネルギー」を注入することを意味する。
(第二章 端緒 / 超能力開発とシャクティーパット より)

これは、ヨーガのシヴァ派の教典に書かれていることでもあるので、それを信じる根拠にしようとすれば、まあできる。ツッコミどころは仏教とのブレンドの度合いなのだけど、いまのようなネット社会であればその矛盾はすぐに指摘されたのではないかと思います。


 一九八七年に出版された『イニシエーション』は、インドやチベットの高僧たちの写真とコメントを多数収録していた。たとえば、麻原は、ダライ・ラマから「君はボーディ・チッタをもっている」といわれたことを著書の中で書いている。麻原は、これを「仏陀の心」と解しているが、これは本来「菩提心」、つまり「悟りを求める心」、求道心を意味するのであって、「悟った心」を意味するのではない。
(第三章 ヨーガ教室から宗教団体へ / オウム真理教の基盤 ─ヨーガと仏教の混交─ より)

これも「ボーディ」「チッタ」ともに宗派によって意訳の組み合わせがいくつもできて、ツッコミを入れられる人はたくさんいたのだと思うのだけど、たぶん信じている人には届かない。


シャクティ・パットの話はいまでも信じたい人は積極的に信じにいく種類のことだと思うけれど、後者のことを今やったら、ダライ・ラマ本人から「わたしはそんな意味で言っていない」というコメントも出そう。
オウム真理教には、インターネットがない時代だからできたことが多かったんじゃないかな。読みながら、そんなことを思いました。