心理学しながら人間学した巨星・なだいなだ先生の言葉が、あらためて沁みてきました。
「ケシカラニズム」
恥の文化で人を裁く日本人の、独特な攻撃性を7文字で表現している。
わたしは以前、クレーム対応をする人たちと仕事をすることがありました。わたしの立場は、テクノロジーも使いながら仕組みで手助けできることがないか、探すことでした。ハードクレームの現場やシーン分解の作業をしたときは、なだ先生のこの言葉のおかげで、必要なことを冷静に考えることができました。
もうひとつ、いまごろになって沁みてきたのが
「わかりいそぐ」
これも、「ケシカラニズム」同様、「人間、この非人間的なもの」という本に出てきた表現です。
「人間、この非人間的なもの」を読んでから4年が経ちました。
今年、山本七平さんの「日本人とユダヤ人」、土居健郎さんの「甘えの構造」という本に出会い、これまで言語化できずにもやもやと抱えていた思いを可視化されたのですが、そのあとであらためて沁みてくるのが、なだ先生が伝えたかったであろう、「わかりいそがない生き方」。
神様が見てると思ったら、わかりいそいで表明しなければいけないことなんてない。
「神様が見てる」
この気持ちは信仰心か? と思うのだけど、そうではないようです。
「自分の魂を大切にする」ということはとてもむずかしいので、まるでそういうことになっているかのように、先人たちが考えてくれたファンタジー。
「わかりいそがない生き方」
いままでぜんぜん、これが実感できていなかったなぁ。
<「人間、この非人間的なもの」 99ページより>
もし、日本の社会で、まだ一を聞いて十を知る聡明さが、尊重され続けているのならば、それは日本の社会が、まだ縦割りの構造をのこしており、そこで上のものの意図をはやく知ることが聡明さとされている証拠でしょう。そして、この聡明さの存在するところ、あらゆる意味ありげな物事は、わかりいそがれ、意味づけられていきます。
最近わたしは、「聡明でない人」の聡明さを研究しています。
「聡明な人」は、人間界では生命力が高いかもしれないけれど、自然界では生命力が低いかもしれない。この文章の中の「意味づけられる」は、先にあげた山本七平さんと土居健郎さんの本の中で分解されています。
最近やっと、本のありがたみを身をもって実感できるようになってきた気がします。