「主なき」というのは今日引用する箇所に共感した要素を伝えたくて、わたしがこの本に出てきた「広報思想」という言葉に書き加えたものです。
先日、地域広報の仕事をする友人がまさに今日書くようなことで悶々としたなかで書き上げた文章を見て、ずっと寝かせていたこの部分の引用を紹介したくなりました。もう一、二枚オブラートを剥がすと、彼女は大きな戦争被害にあった都道府県の広報の仕事をしており、戦争についての意識のジェネレーション・ギャップに「ケシカラニズム」が絡み合う状況を見て、頭と胸を痛めていました。
「メディアの情報の受け取り方に気をつけよう」という警笛を鳴らす人は一般人でもあちこちにいるけど、なかでも格段にジャスト・ナウな現代社会に沿った指摘のしかたをする人々(例を挙げると森達也さん、SYNODOSの試みなど)の視点には、啓示宗教の歴史の中でくりかえされたことからの学びが含まれているように思います。「わたしは日本人です。無宗教です」と言ってしまうことの半面(反面ではありませんよ)について考えられるようになるには、ヨガのアーサナと同じようにトレーニングが必要です。
以下引用は全て「日本人は知らなすぎる 聖書の常識」という山本七平さんの著作からです。
インド思想を学んでいると「リアリズムのさまざまな形」に見えてくるのですが、この本の62ページ「聖書はリアリズムの世界だ」という章の末尾に、こうありました。
私は徳川時代の『妙好人伝』のようなものが信じられれば、人間はいちばん幸福だろうと思う。それで割り切ってしまえば、たとえば義人の苦しみ ── 正しい人がなぜ苦しむのかというようなことなど、前世の因縁でかたづくから、旧約のように徹底的に執拗にそれを追求する必要はなくなる。日本人があっさりしているのは、こういう伝統に原因があるのであろう。
簡単にいえば旧約の世界は安易な「悟り」がまったくない世界であり、その点では恐るべきリアリズムの世界である。
日本人は「リアリズムを避ける」技術にすごく長けていて、「和を重んじる」ということができてしまう。これはある意味高度なコミュニケーションだと思うのですが、その土台にある圧倒的にドロドロとしたものを「ないものにする」ことが進みすぎているように思います。江戸時代には「前世の因縁」で片付いていた「落としどころに落ちていた意識」が、いまはメディア化できるツールを使用した「現世の因縁として吊るし上げたい人」の行動となって、転変して出てきている。このコメントは先に書いた友人の思いを勝手に代弁して書いていますが、「生まれながらにして穢れている人間」という意識の喪失は、とても危険なものであると思います。
先日「こどもインド哲学」でお母さんたちに「マヌ法典では、コドモは生まれながらにしてカルマを負ってる設定ですからね。ほいで、7歳か8歳から師について "知恵の得かた" を学んで、浄化を始めていくんです。別に "コドモは天使だから" みたいな育児啓発書に踊らされなくていいと思いますよ」と話したら「すごく気がラクになった」と言われたのですが、ヒンドゥーにしても旧約にしても、「簡単に悟れると思っていない」前提から生れているので、そういうものから学ぶことはとても多いです。
ということを踏まえておくと、以下の引用部も理解しやすくなると思います。
ヨブ記に出てくる「神の義」と「人の義」というのがこの問題で、神の義と人の義は同じなのか、同じならばなぜ神が全能なのに義人が苦しむことがあるのか。では違うのか、違うのならばこれにどういう解決があり得るであろうか、という問題になってくる。
自分の内部に内なる合理性と外なる合理性が厳然とあり、それが「社会主義」を求めているという自覚の一方、この内なる合理性と外なる合理性が一致しないということは、聖書だけでなく、多くの書で取りあげられ、つねに人が問題にしてきたことである。
(「聖書はリアリズムの世界だ」 より)
旧約聖書のきびしさはこの安易な悟りのなさにあるという解説部分がとても響いた。本を読むと「旧約には来世という考えはなかった」という章がこの前にあるので流れとしてすごくわかりやすいのですが、いったん流れを切って、今日の本題のような引用部、紹介します。
箴言が民衆思想となって支配するようになると、これが一種の広報思想に転化する。つまり「こういうことをすれば、主はこう報われるだろう」という考え方である。
これはすでにエズラの思想にもうかがえることで、われわれがこういう状態にあるのは契約を破ったからであるということは、契約を守ればこういう状態から抜け出せるだろうという逆の発想になりうる。
これが訓言化、箴言化されると、いっそう徹底されて、その一つ一つを守れば神はこういうふうに喜んでくださるという発想が出てくる。
そして、それを逆にすると、そういうふうに恵まれない人間は、神の教えを守らなかった、だからその報いを受けたのだという考え方になって不思議ではない。
これはたいへんこわいことで、私はつねづね、正直者がバカをみない社会ができたらたいへんなことになるのではないかと思っているのだが、そういう社会だと、バカをみた人間はみな正直ではないということになってしまう。正義は必ず報われるということになると、では報われない者はみな不義かということになる。箴言化には、このように事柄を単純に割り切って、裁いてしまう一面がある。
(「広報思想につながる "教育書" 箴言」より 184ページ)
こういう箴言的発想に対して徹底的に批判・反抗している文書がヨブ記なのだそうで、これについては悪魔についての説明がされている章が深かったのでこの部分を紹介します。
旧約、とくにその古い資料におけるサタンは決して「神と悪魔の対立」というかたちにならず、サタンは神のかたわらにあって人の罪を告発するものになっている。とするとまさに「正義の味方」なのだが、ではなぜそれが「悪」なのか。それは、告発は正義を口にしながらその動機が憎悪であり、憎悪を悪の根源とみるからである。
この伝統は聖書に一貫しており、後代になると一見善悪二元論のようにみえるが ── またそう誤解する人も多いが ── 、善悪の対立はむしろ宗教心理学的で、善き衝動(イエツエル・ハツトーブ)と悪しき衝動(イエツエル・ハラ)の対立とみている。
聖書は決して正義対悪といった単純な見方をせず、この世の中に「正義の味方」と「諸悪の根源」にがあるといったような短絡的発想もしていない。また人間を「善人」と「悪人」というかたちに分け、二種類の人間がいるとも考えていない。これはエゼキエルの例でも説明したが、人間とは憎悪が動機で正義を口にしたり行ったりする者ともみている。いわば「悪しき衝動」に基づく「義による告発」である。イザヤも「人間の正義は汚れた下着」という言葉を口にしている。ヨブ記に描かれているサタンはまさにそのような存在である。
(「悪魔は正義の味方か?」189ページ)
「告発は正義を口にしながらその動機が憎悪」であることに対し「その憎悪を告発する」というスパイラルが起きている。メディアでも、日常でも。そこに出てくるのが「和を乱す」とか「言い出したらきりがない」という理由であったりする。特に日常では意識と事象がどう転変したと捉えているか、という話へは一歩もすすまないことがほとんどで、「ともだち」「なかま」ほどそこを追及しないものであるという設定のほうが優勢なのではないかな。聖書にある流れで考えると、そんなのともだちじゃないんだけどね(参考)。「和を乱す」と言った瞬間に思考のスイッチを切ることができる。これが日本の黒魔術なのだろう。インド思想をベースに考えると、この思考停止は「ブラフマニズムの悪用」とも感じられる。この葛藤に襲われたとき、わたしは空海さんと親鸞さんの書を開く。
まことに「正義は勝つ」とか「正しい者は報われる」といった発想は、逆転すると恐ろしい。いわばヨブが「報われないのは、正しくない」証拠になってくる。
(「ヨブ記は箴言を批判する」より 192ページ)
「和を乱す」という言葉と非常に親和性の高い日本語の黒魔術マントラに「理屈っぽい」というフレーズがあります。学ぶことというのは論証することなので、避けられないんですけどね。いまこういうのを避けたい思考を「ポエム化する」というらしくて、これはとても鋭い指摘だと思います(日本のヨガ業界は一般人のポエム化が格段に早かったと思うの)。
あくまで軸足はインド思想に置いているつもりなので(よく重心変えてるけど・笑)、最後はバガヴァッド・ギーターに話を寄せていくのですが、わたしは宗教というのは二元論を超えるための方法論のバリエーションだと捉えています。なので、ギーターを読みながら「ここ親鸞じゃん」「これ空海じゃん」となるのです。「無宗教です」と言ってしまうのは、あえて極端な言い方をすると「白黒つけたいです」とか「考えるのいやです」とか「勧善懲悪って、スッキリしますよねー! 半沢直樹とか水戸黄門とか」って言ってるのとあんまり変わらないように思うんです。
「これという宗派がひとつに定められない」というのと「無宗教」ということの間には、あたりまえですがグラデーションがあるのです。
▼わたしが読んだのはオレンジバックス版なのでページ数は違うのですが、これは手に入りやすいよ。