去年の11月頃からつい最近まで、翻訳作業(英語から日本語)をしていました。
翻訳作業は、日常の合間にちょぼちょぼやって足掛け10ヶ月。ヨーガ周辺の古典を英語版から訳してみました。
訳してみたのは「ゴーラクシャ・シャタカ(GS)」「ハタ・ヨーガ・プラディ・ピカー(HP)」「ゲーランダ・サンヒター(Gh.S)」「シヴァ・サンヒター(SS)」のハタ・ヨーガ古典4冊と、「サーンキャ・カーリカー(SK)」。SKは年代的にはヨーガ・スートラ(YS)より古く、YSの下敷きになっているサーンキャの教典です。
きっかけはいろいろあったのですが、いつか11世紀以降の古典の構造整理をまとめてやろうと思っていました。
実際やってみたら、こんな効用がありました。これは、走るマラソンととてもよく似ていました。
■英語から日本語化してみて気づいたこと
- 日本語は心の状態を感情ヌキに描写するのを極端に苦手とする言語なので、英語→日本語のプロセスを経ることで、日本語特有のタマスにひっぱられずに理解を進められる。(参考:「甘えの構造」の感想)
- 日本語は英語よりもスピリチュアル・ワードの扱いが日常に浸透している。(解脱とか悟るとか)
- 日本語版では頭に入ってきにくいマイトロジカルな部分(神話学や神様の名前、役割など)が、しつこく読むことで刷り込まれてくる。これは数をこなさないと無理。
- インド三大神(ブラフマン、シヴァ、ヴィシュヌ)とシャクティ信仰の関係性に慣れてくる。
- 地域感(河の名前や地名が出てくるので)がうすぼんやり入ってくる。
- 日本語訳の「注釈」のありがたみが沁みる。
- 参照する訳者の言葉選びを自分の場合と比較して楽しめる。
■ハタ・ヨーガ古典を複数まとめて訳して感じたこと
- ヨーガ・スートラはサーンキャ哲学だけどハタ・ヨーガはヴェーダーンタ哲学だという意味がわかってくる。
- 訳しながら内容を頭に入れていくと、思想のフォーカスポイントと教示メソッドの構造が身体に入ってきやすい。
- それぞれの古典の頻出語やノリがつかめる。
- それぞれの古典が論争の対象として意識している学派や思想、引用している古典との関連が見えてくると、おもしろさが増す。
HPを訳しているときは比叡山をイメージし、SSを訳しているときは高野山をイメージしました。
Gh.Sのみどうしてもベスト・キッドとドラゴン・ボールが浮かんでしまいます。なので、これだけは語尾が「次は○○の呼吸じゃ!」と武天老師調になりました。
ここまでは、終わってみたら楽しかった。という話です。でも、やっている間はよく頭痛がしていました。今は、この訳を下敷きにして現代の日本語感覚でいうとそれはどういうことなのか、というのを研究しています。
これはわたしだけかもしれないのですが、古典にどっぷり浸かってみればみるほど気づくことがありました。
それは
空海たんすごい……すごすぎる。
ということ。ハタ・ヨーガ古典が編まれたといわれる時代のうんと前に、すでにその内容を日本に持ってきている。どーゆーこと?!
(教典の歴史は所説あるので範囲が広いのですが)
- 〜5世紀:ヨーガ・スートラ
- 6世紀:サーンキャの漢訳「金七十論」が中国へ入ってきている
- 806年:空海さん唐より帰国
- 11〜15世紀:ゴーラクシャ・シャタカ
- 16世紀:ハタ・ヨーガ・プラディ・ピカー
- 16〜17世紀:ゲーランダ・サンヒター
- 8世紀〜18世紀(?):シヴァ・サンヒター
読み物の雰囲気としては、シヴァ・サンヒターがいちばん空海密教と親和性が高いと感じました。
シヴァ・サンヒターの第一章「宇宙論」を訳しているころは、これ空海さんが書いたんじゃないの? と思うほど。中国を経由してるけど、ハタ・ヨーガはしっかり入ってきている。でもインドのマイトロジカルなところはそのまま入ってきていない。
時代からたどると、すでにサーンキャが漢訳で「金七十論」として6世紀に中国へ入ってきていて、空海さんはその教えを受けたのだろうけど、これらをどうつないで【サーンキヤ+ハタ・ヨーガ+仏教=空海密教】なるものをつくりあげたのか。とにかく本当におそるべし、なのです。
そのすごさが以前よりもさらにズシン、ドスンと沁みてきました。空海さんは偉業が多すぎるので、梵語(サンスクリット語を中国版にしたもの)を話せたということはちょっとした豆知識的な扱いだけど、あきらかに他の遣唐使とは持ってきてるものの深度が違いすぎです。
空海さんは遣唐使として中国へ渡る以前に道教の流れを汲む修行でマントラ・チャンティングをやっていたといわれていますが、実践経験による身体の知恵とサンスクリット語も処理するCPUをもって中国へ渡り、たった2年でそんだけ持ってきちゃったの?! 中国にわたる以前の流れからして、完全にヨーガに導かれていた人のようです。
「すごいすごい」と言うことは簡単で、わたしも今までさんざん「すごいすごい」と言ってきたのですが、今年の3月ごろからその「すごいすごい」の意味や濃さが、自分の中でまったく違ってきました。
空海さんのこの学びっぷりを思うと、「グローバル」という言葉がとても狭い領域のことに感じます。現代は情報がたくさん得られて海外へも行きやすい便利な時代ですが、最近のわたしは、それによって自分を散漫にさせてしまっていることのほうが多いです。
経験の後に立ち止まって、静かにどこまで掘り下げられるかというのが、今後の学びのテーマになりそうです。