うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

すぐわかる楽しい江戸の浮世絵 ― 江戸の人はどう使ったか 浅野秀剛 (監修)/ 辻惟雄・湯浅淑子・田辺昌子


先月「春画展」を観にいってから浮世絵の「用途」が気になるようになり、読んでみました。
春画が負っていたカーマ・スートラ的な役割のみならず、ニュース、社会論、ゴシップ、お笑い、道具カタログ、ファッション・カタログ、ヘアカタログetc…現代人がメディアに求めるさまざまなことを浮世絵が担っていたことがわかります。
現代は一般人が広告の役割も公に果たす機能がインターネットで可能になって「ステマ」なんて言葉も普及してきましたが、江戸時代の段階でも広告としてのやりかたがはじめは「粋」なものが、だんだん品をなくしていったりしています。


わたしが驚いたのは、今もやっているのかわかりませんが、週末にやっているお昼のテレビ番組のコーナーと同じようなことをしていること。若い女性が料理の手順を知らなかったり道具がうまく使えない様子をテレビに映して、大人たちがあざけり笑いをする番組がありますね。ああいうのと似た喜多川歌麿の絵が紹介されていました。
「教訓親の目鑑 俗二云ぐうたら兵衛」(きょうくんおやのめがね ぞくにいうぐうたらべえ)という絵で、寝起きのだらしない若い女性を描いていて、こんなボケーッとした子になるのは親の誤りというようなことが文字で書いてあります。
先の例のテレビでは「親がどんな育て方をしているのか」なんてコメンテーターが発言したら今は炎上するのでしょうけれど、昔からこういうのはあったんだなと。根底にあるケシカラニズムや差別感情って、根っこはそんなに変わらない。


このほかにも、歌川国芳が特におもしろくて、道具がボヤいている「諸道具寄合噂ばなし」はいまでも見るだけで笑えるし、天保の改革で役者の似顔絵が禁じられたときに、亀のボディに役者の顔をつけている絵はゲームの「シーマン」そのもの。
草双紙の紹介では、複数の画家が「善玉」「悪玉」という目玉オヤジみたいなキャラクターを「心の中の天使と悪魔」のように描いていて、かなりかわいい。わたしは子供のころに「コレステロール」という言葉が世に出てきて、いい大人たちが「善玉」とか「悪玉」と言っているのがなんだか滑稽に思えていたのですが、こういう歴史があったのですね。
ほかにも、幕府の目をごまかすために株価の上下を凧揚げに見立てて、その凧を持っている歌舞伎役者の人気度とリンクさせた絵にも驚きました。(豊原国周の「諸色戯場春昇初」(しょうばいかぶきはるのあけぞめ)


俗な感情って、ずっとこんな感じなんだな…と思うと同時に、昔の人はひとつひとつを丁寧にこんなに凝った美しいもので共有していて、「共有したい」「伝えたい」というエネルギーの底力を見た気がしました。「興味」って、すごいエネルギーだ。