うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

責任感の種類と身体の癖

研究ノート
自分のなかに蓄積していくものがあって、今日は観察のまとめのようなことを書きます。
日々気づいたことをいろいろな書物を頼りに確認しながら、少しずつ粘土細工のように自分の中で「こういうことかな」と形にまとめていくような、そんな作業でした。(写真は研究ノートのメモ)
その範囲は日々の気づきでこれからも拡がっていくだろうと思うのですが、うちこの場合は日々見る社会現象、ふだん接する人から聞くさまざまなお話、ネットの世界で特に見やすい人の潜在意識、いろいろな要素から感じることをサマリー、アベレージetc...と演算する癖がある。
特にいまは「言葉狩り」「名前狩り」の世の中で、いろいろなことがあぶりだされている。ここしばらくの間に思うことが増えた。


こういうのは文章にしようとすると「でもこういう場合は別の背景もあって複合的にそうなっているので、それだけがすべてではないからね」と、つい但し書きをしたくなるものです。
とくに女性のことのほうがよくわかりますから、「ああ、この人の肩が内巻なのは、性格に反してグラマラスな身体つきのせいかな」「乳房の発育が人よりも早く始まったのかな」とか、ファッションや話し方やボキャブラリなどなど、総合的に感じる。
今まではポーズの説明や本の紹介を通じてちょいちょい書いてきたのですが、ちょっとこういう書き方にもチャレンジしてみようかな、と思うようになりました。100人いたら100人違うのですが、という前提で。


今日は、性格のなかでも「責任感」と身体の傾向についての観察。この分け方も細かいのがいろいろ浮かんできていちいち迷うのですが、バチっと3種類。特に分類に名前をつけようがないので、心の持ち方で書きます。



【1】漠然と「なんとかしなきゃ」
【2】「悪いようにはしません。それなりにまとめます」
【3】「どんなことも、受け容れるしかありませんからね」


【1】の人は、大殿筋(大臀筋)の便利さに身体が気づいているので、「なんとかしなきゃ」のときに無意識にそこを使います。使えるところに頼るスイッチを入れる。わりとわかりやすいですし、こういう人は【2】や【3】よりも多いです。
内転筋を鍛えましょう。内腿と、土踏まずを使えるようにしましょう。
特にダウンドッグでは、脚のつけ根を「まっすぐに」引き込むように、「なんとなく」ではないように。これを心がけるだけで、ずいぶんアーサナの奥行きも変わってくると思います。
なんでもとっておいたり、「こんなことがあるかもしれないから」と、準備をしすぎるのもやめたほうがよいです。その準備魂によってまた大殿筋が育ってしまうのと、逆の言い方をすれば「あなたは準備しなくても、いざというときはその大殿筋があるので大丈夫です」(笑)。
「ふんばる用意はできてます」というのはすばらしいことだと思います。



【2】の人は、鎖骨下筋、小胸筋の使い方が短い。縮んでいる、というのともまた違うので伝え方がむずかしいのですが、この辺の動きが呼吸と連動しにくい「頑固さ」のようなものがある。
この責任感はいざという時にそうなるというものではなくて、日々の姿勢やスタンス。なので、背中で手を合わせるエクササイズ、できなければ、背中で左右の肘を持つのがよいです。
よいというのは、あまりに広範囲に「はいはい、わかりましたよ」と、ひとりファミレス状態(注文も料理も提供も皿洗いもするようなスパイラル)にハマっていることに自分で気づいたときにやると、少しは疲れが減るという意味で、よいです。
このタイプの人が「またかよ」ではなく「よきにはからいますぜ」という心持ちでいられるときの活動は、最高に輝いていらっしゃいます。



【3】の人は、身体ではこれといってわかりやすいところがない。本人も疲れに気づきにくい。
ただ、「受け容れかた」を観察するために、意識や目が疲れる。そうすると、胸椎5番のあたりがコリコリする。
鋤のポーズからロールバックしてくるときに、胸の裏にコリコリがありますから、そこで少し止まって、じわーっと刺激を与えると気持ちよいです。気持ちよいのは、身体が求めていることなので、やるとよいです。
とにかく責任の上であきらめ対処が身につきすぎているので、自分で自分をほぐす術をもっておかないと、人に頼れない性格を補えずに苦しくなってしまうので、マッサージでもなんでも、ほぐし案件にはお金を使ったらいいと思います。



いずれの責任感も「グイグイ感」とセットのとき(アクセルが踏めているとき)には気になりません。問題となるのは、実は心底アクセルが踏めていないとき。種火が弱いとき。
こういう性格、対応思考のパターンみたいなものは「癖」なので、治るとか治らないとか原因を探るとか、そういうことに気持ちをもっていくよりは、その性質が「過剰かも」という状況に自分で気づけるほうがいいと思うんです。
「ああいま、自分の責任感の癖が強く出て、種火以上に自分で自分をプッシュしているな」という、アクセル踏めてないとき。
他責でないのはいいことなのですが、自責も度が過ぎるとその過剰な感じが重いムードを醸し出してしまう。そうなると、その人が本来持っているよさ、責任感から発する輝きのようなものが曇ってしまう。そんなふうに感じます。
若干まとめ気味に当てはめると【1】タマス、【2】ラジャス、【3】サットヴァ ですが、もちろんブレンドもある。
うちこの場合はヴァータピッタですから(最近比重が逆転)、3と2の性質を持っています。さすらい癖・旅人体質なので、1はあまりないんですね。3が先に起動する。


ヨガはなにかを解決してくれるものではないけれど、思考の展開のようなものを教えてくれます。
少しでもみなさんのなにかの気づきのヒントになれば幸いです。