うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨーガ入門 佐保田鶴治 著(池田書店/文庫)【後半】

ヨーガ入門 ココロとカラダをよみがえ
先日紹介した本の続きです。ご自身の言葉で語られるヨーガのココロの実践部分は、ほかの本では法話を文字にした「おはなし口調」のものが多いのですが、この本は珍しいくらい記述っぽい文体で書かれています。
アーサナやムドラーの説明で思わずほっこり笑える「はんなり表現」が炸裂した前半とは一変して、まるで実況のように淡々と書かれている。
なかでも「静慮」の説明のわかりやすさは必読モノ。この部分周辺を紹介します。

<224ページ ヨーガの究極の境地 より>
(三昧についての説明の流れから)
 このすばらしい体験は、ほんのしばらくしか続きませんが、しかし、それから元の心理状態にかえったあとも、そのときの体験で得た印象は人生についての深い智恵の形で残り、その体験の余香である一種のムードは、その人の人格を平静、明朗なものにかえてしまうのです。
 ヨーガの究極目的は、真我、または自分の内部に本具する神性を実現することにありますがそれほどに高い目的を達成するには至らないまでも、ヨーガ的な方法でココロの調練を重ねてゆくならば、評価しきれないほどの大きな利益を得ることができます。
 一生のうちに大きな仕事をした人びとは、生まれつきか修練かで、このヨーガに似たココロのコントロールができる人であったのです。

「大きな仕事をした人」でも、「すばらしい体験は、ほんのしばらくしか続きません」という状態は一緒のようで、偉大といわれる人のそういう場面に出会うと、智恵というのは努力だけでは身につかないものなんだなと思う。それでもまったく経験がないのとはやっぱり圧倒的に違うと思うのは、「平静でない状況の葛藤を表現できる」というところに。経験がないと、やっぱり向き合うことも表現することはむずかしいのだと思う。

<222ページ 直観と智恵 より>
 思考と直観とを区別すると、思考は分析的、抽象的、理論的であるのに対して、直観は、総合的、具体的、実践的であるといえます。
 知覚的経験は一種の直観ですが、このほかにもう一つの直観があるのです。それは知的直観と呼ばれるものです。哲学の根源となるものはこの知的直観です。
 知的直観ですが、経験的直観ともちがい、概念的思考ともちがっています。知的直観の内容は、普遍的ですが抽象的ではなく、具体的ではありますが特殊的ではないのです。いわば具体的普遍とでもいうべき性格のものです。
 三昧とか定(じょう)とかいわれる境地は、この知的直観にほかならないのです。この境地に達して始めて哲学から高い智恵が生じ、それが生きる力となるのです、哲学が説く真理はそのままでは生きる力とはなりませんが、知的直観を介して智恵となったときに始めて、「生きた真理」となって、われわれに信念と活力を与えてくれるのです。

「具体的普遍」と。ここには思わずうなる。
「哲学が説く真理はそのままでは生きる力とはなりません」。知的直観が生気となって、はじめて真理に息が吹き込まれる。その生気を育てるものはは総合的、具体的、実践的なことであって、区別したり分類してもしょうがないものだ。と、読み取りました。

218ページ 凝念と静慮のちがい より>
理論上では、凝念と静慮は、はっきりと区別することのできる、思念の二つの型なのです。静慮(ディヤーナ、禅那)は、ヨーガ経典のなかで「同一の場所を対象とする想念がひとすじにのびてゆくこと」と定義されています。
 凝念と静慮とでは、ココロのはたらく方向がまったく逆だともいえるのです。凝念は、その思念の対象をできるだけ単純なものにしぼり、そこに注意の焦点を凝結させます。
 しかし、静慮のほうはココロをのびのびと進展させるのです。凝念は集中的であるのに対して、静慮は拡大的なわけです。
 凝念のねらいが、なるべく狭い範囲へ注意の焦点をきめて、その対象をできるかぎり明確に意識にのせる作業であるのに対して、静慮のねらいは、凝念の作業によって得られた明確な意識をあらゆる瞬間に持ち続けながら、選ばれた対象についての想念の流れを、だんだんとひろげてゆくことにあります。
 凝念によって制限された狭い視野のなかでとらえられた対象が高度な明せきさで意識されるようになったとき、それと同程度の明せきさでそれよりもひろい範囲のココロの視野を意識できるようにするのが静慮の練習なのです。
 視野がひろがったために、思念の力が弱まり対象のイメージ(心像)がぼやけてしまうようでは静慮とはいえないのです。


(中略)


 それは、暗く沈んだここち(昏沈=こんじん)でもなく、浮動したここち(棹拳=じょうご)でもなく、平静にたんたんと続いてゆく澄みわたった意識です。この意識の流れのゆきつく先に三昧(定=じょう)があるのです。

阿字観瞑想や月輪観がむずかしくてわからないという人にも、わかりやすい説明だと思う。
「凝念の作業によって得られた明確な意識をあらゆる瞬間に持ち続けながら拡げる」というところ。

<219ページ 静慮の方法 全文>
 参考までに、静慮の実際的なやり方の一例をあげますと、「連想の組織的系列」または「思考の路」と呼ばれる方法があります。それは、ある一つの対象について、次のような質問を設けて、解答を考えてみることです。
(1)その対象と同じ種類、または同じクラスのものは何か?
(2)その対象の部分としては、どんなものがあるか? それらの部分は、どんな役目をするか? その対象は、ほかのある対象の一部分であるのかどうか?
(3)対象の性質には、どんなものがあるか? その対象は、さらに、ほかのある対象の性質の一つではないのか?
(4)その対象とほかのある対象との関連について、これまでになんらかの経験をもったことがあるか? それを見たり、聞いたり、考えたりしたことがあるか? 等々。
 静慮の練習には、対象の種類を、段階的に具体的なものから抽象的なものへ、単純なものから複雑なものへとかえてゆきます。
 その段階をもうすこしくわしく分けてみますと、(1)単純で具体的なもの、(2)複雑で具体的なもの、(3)単純で抽象的なもの、(4)複雑で抽象的なもの、の四段階に分けられます。 法(ダルマ)、愛、美、生命などというような抽象的で複雑な観念を対象とするのは、静慮の作業を、じゅうぶん修得してからでないと駄目なものです。

これは、たとえば「イライラするなにか」にあてはめたほうがわかりやすいんです。これをしたのが清少納言。「うつくしきもの」よりも「にくきもの」のほうがわかりやすかったという人のほうが多いんじゃないかな。負の感情のほうが安易に繋がるというのもあるのだけど、それにしても清少納言はやっぱりすごい。

<220ページ 三昧の境地 全文>
 静慮の心理操作に熟達しますと、ココロのなかから混乱や衝突がすべて追い払われ、ココロのはたらきがスムーズに進行するようになります。そのあいだに、もう一つのより高い能力が発現する準備がととのうのです。
 静慮の展開の過程が完結したときに、おのずと三昧(さんまい)の境地が現れてきます。このとき、ココロが思いがけなく、いやおうなく、三昧の境地へ落ちこんでゆくのです。
 つまり、静慮の段階で、ある対象について自由に伸び進んだ思考の流れが、その材料となる観念のたくわえが尽きてしまって、おのずと終わりに来たときに、思いもかけず三昧の境地が出現するのです。三昧の境地は、望んで得られるものではないし、力ずくで手に入れられるものでもありません。
 三昧は静慮の実修の結果として、それ自身のほうからやってきて、自分で勝手に展開するのです。ですから、三昧すなわち「さとり」は啓示とされたり、覚せいになぞらえたりするのです。
 三昧の精神状態においては、主観と客観の両面が完全に合一するので、思念の対象は、それ自身で存在し、自分勝手に動き、自力で展開しつつあるかのように思われます。
 ヨーガ経のなかで三昧を定義して「思念の対象だけが現れていて、思念自体はなくなってしまったかのような状態」といっているのは、まさしく主客合一の心境を示しているのです。

たまにヨーガの先生に「三昧の体験」「チャクラについての感覚的な何か」を質問する人がいるけど、そんな質問するか? と思う。「あります」でも「あったことがあります」でも、いわれたらガッカリじゃないかと思う。尊敬しているのではなく、尊敬したいという状態だからできる質問なんだろうとは思いつつ、でもそんな名刺に一筆添えるような回答を、尊敬する先生に求めちゃダメよね。尊敬しているのならね。



佐保田先生のことなので、「・・・と、パタンジャリが書いとったよ」と添えることが多いのかと思いきやそうではなくて、ひらがなの使い方がたまらない文章で書かれていました。そんなやわらかな人柄があふれつつも、「やっぱり博士」と思う。ツンデレの逆の、デレツンな一冊でした。
このかわいさは、やっぱりずるい。(写真は背表紙です)