正確にはカータカ(カタ)・ウパニシャッドという記載でした。ここから一気にヨーガ味が増してくるので、佐保田先生のシッダーサナの色も変えてみました。(秋色)
今回紹介するのは「自我に関する教え」「聖音om(オーム)に関する教え」「不滅の自我」そして最後に「瑜伽の観法」。最後のは『ヨーガ・スートラ』の前段みたいな内容です。項目名を見ただけで、「それってもろラマナ」な香りがプンプンですが、この文章はなかなか面白いです。
長いウパニシャッド訳やギーターは難解、と感じる人でも、今回は日本語リアラーゼーション題材としてなかなかよい内容だと思います。ひとつひとつはそんなに長いセンテンスではないので、ヨギの日本語感覚のトレーニングにもなりそうです。
いくつかの引用紹介の前に、今回は一番最後に「流通分 ── 編者の語」という、「密教宣言!」みたいな詩のようなものがあったので先に紹介しておきます。
流通分 ── 編者の語
死神が教えを垂れたまいし、不滅のナチケータス物語をば、哲士は語りつぎ、聞きつぎて、死しての後梵神界にありて栄ゆ。
およそこの至上の秘義をば、あるいは婆羅門の集会において、あるいは身を潔めて行う祖先祭の席上において宣べ伝えんものは無窮の生命を享くるに至らん。
無窮の生命を享くるに至らん。
ナチケータスの教えを口伝するサット・サンガがたくさんあったのだろうな、という情景をイメージしながら読むのも味わい深い。
という流れで、引用紹介へまいります。改行はスートラ仕様に沿った改行です。
自我に関する教え
「この見難き、秘奥に匿れ、玄洞に棲み、深淵に潜む久遠の神(自我)をば、己身の瑜伽(ヨーガ)の果たる智を以て観想して、賢者は喜憂を並びに棄却す。
人もしこの事を聞きて、ことごとくこれを把握し、この正しき、微妙なる自我を抽き出して、これを取得せる時には、人の喜ぶべきものを得たるなれば、彼は大に歓喜す。かくて今はナチケータスのために梵の殿堂は開放されたりと我は思惟す」
ナチケータスはいう。
「法(正義)の領域にも非ず、非法の領域にも非ず、過去と未来の領域にも非ざる辺において貴神が徹見せるものを我に語りたまえ」
夜摩神は説く。(次の引用に続く)
注釈に『「秘奥」「玄洞」「深淵」はすべて心臓内の空所のことである。』とありました。
これを引き継いで、感覚的なことをあらわす表現として「微妙なる自我を抽き出す」というニュアンスがとっても繊細でいいなぁ、と思いました。訳の妙。
聖音omに関する教え
「ここに、一切の聖典の詮表するところ、一切の苦行の語るところ、また梵行を修する徒の目的とするところなることばあり。これを要約して卿に告げん。『om(オーム)』これなり。
この聖音はげに梵なり。この聖音はげに至上なり。まことにその聖音を識りたらば、望むところのもの悉く己が所有とならん。
こは最勝のたよりなり。この至上のたよりなり。このたよりを識りたらば、梵界において栄えん。
日本人の非ヨギとして普通に生活していたら「梵界において栄える」ところまでなかなか思わないところ。ただ聖音を唱えてチャクラがどうのとかいう話ではなく、もっと総合的に(というのをインテグラルとかいってまたスタイルなノリにすると少し残念な感じが出てくるのですが)、輪廻思想からヨーガに向き合いたいものです。
ちなみに先日の朝青龍の「生まれ変わったら大和魂を持つ日本人として……」というコメントには、膝が抜けました。インテグラルな皮肉として、こんなに刺さるものは過去になかった。
不滅の自我
全智者(自我)は生ぜず、死せず、何物よりも成らず、何物におならず。不生、常住、永恒、久遠にして、肉体は殺さるるも、自らは殺さるることなし。
加害者にして『殺さん』と思い、被害者にして『殺さる』と思うはいずれも真に知るものというを得ず。かの全智者は殺さず、また殺されざるなり。
有情(生類)の玄洞(心臓)に鎮まれる自我は微なるよりも微に、大なるものよりもさらに大なり。かかる自我の栄光は、意欲をもたず、煩悶を離れし人にして諸官能の静澄なるを得たる時、初めて照観するを得べし。
彼(自我)は坐してしかも遠く遊び、臥しつつしかも遍(あまね)く行く。かかる可思、不可思を兼ねたる神を識ることは我以外に誰か能くせん?
諸々の肉団の裡(うち)にありて身をもたず、安固ならざる物がらの裡にありて泰然たる、偉大にして、偏在せる自我を観想せる時、賢者は憂患なし。
この自我は言詮によりて把捉するを得ず。はた才知によりても、多聞によりても把捉するを得ず。ただ彼(自我)が選べる者によりてのみ把捉せらるべし。かかる人に対しては自我は自己の身を開示す。
悪行を廃せざる者、感官を制せざる者、精神の統一を得ざる者、あるいは意の寂静ならざる者の如きは叡智によりて彼(自我)に到達することを能わず。
咒力と権勢はともにその飯食にして、死もまたその掛汁に過ぎざるが如き者(自我)、かかる者の鎮座する処を上記の如く知るものは誰ぞや?
【加害者にして『殺さん』と思い、被害者にして『殺さる』と思うはいずれも真に知るものというを得ず。】の箇所はまさに先日日記に書いた「逆ジャイアニズム」。
最後の「誰ぞや?」の問いは、ビジネスの場面で制しなければいけない自我の内観法として秀逸すぎる。みんなドラッカーは好き好んで読むのに。インドは人気ないなぁ。しつこいからかなぁ(笑)。
そしていよいよです。
瑜伽の観法
自我を車主と知れ。されば、肉体は車輛、覚智(ブッディ)は手綱なりとこそ知れ。
賢者は諸根(感官)を馬と呼び、対境を馬にとっての道路、身と諸根と意とを具したるものをば享受者とよべり。
人もし常にその意(マナス)を検束せざるによりて明識あるものとならずんば、その感官の柔順ならざること、あたかも駻馬(かんば)の御者に対するが如し。
されど、常にその意を検束するによりて明識あるものとなれる人にありては、その諸根の柔順なること、あたかも良馬の御者に対するが如し。
人もし常に意を練ることを為さず、心不浄にして、明識あるものとならずんば、かの至上の境地に達するなくして、輪廻に赴く。
されど常に意を練り、心清浄にして、明識あるものとなりたる者は、かの至上の境地に達し、そこより再び生まれ来るが如きことなし。
明識を御者とし、意を手綱に把る者は輪廻の道の彼岸(はて)なる毘紐�劑神(ヴィシュヌ神)の至高境地に達す。
諸感官よりも対境は上にあり。対境よりも意は上にあり。意よりも覚は上にあり。覚よりも大自我は上にあり。
大自我よりも非変異は上にあり。非変異よりも神我は上にあり。神我よりも上には何物もなし。彼は極限なり。至上の帰趨なり。
一切有情の衷(うち)に秘(かく)れ在ますこの自我は現われ出ずることなし。ただ俊英なる観想者のみ精到なる覚智を専注することによりてこれを照観す。
穎悟(えいご)の士はまず語を意の内に拘束すべし。次にこの意を識我(覚)の内に拘束すべし。次に識を大自我の内に拘束すべし。次にこれを寂静なる自我(非変異)の内に拘束すべし。
前半の車輛の喩えはもう定番中の定番ですね。ジョグ瞑想でも出てきてしまうくらいです。
「常にその意を検束するによりて明識あるものとなれる人にありては、その諸根の柔順なること、あたかも良馬の御者に対するが如し。」というのは、「身体を柔らかくしたことは何の結果なのか。心を柔らかくしたことによるアウトプットなのか」というループと似ています。
そしてこの教えは後半が深い。
注釈には、
最後の「拘束すべし」はその三つ前の「諸感官よりも対境は上にあり……」と関係しており、この上下の位置づけは「拘束せられるもの」と「拘束するもの」との関係を示している。つまり最後の「拘束」の項は「諸感官よりも対境は上にあり……」のうちに拘束されることを表している。(要約)
とあります。
そして
「拘束」(yam)というのは、その働きを拘束して働かなくすることで、ヨーガ行における心理的操作を表現していおり、「語を意に拘束すべし」ということは、語(ここでは諸感官の代表名)を意(mind)で拘束して意の中へ取り込んでしまうことだ。
と補足がありました。
ここでいう神我(プルシャ)=自我(アートマン)とのこと。なのだそうで、この逆転した呑み込みの関係を整理すると(こういう要件定義っぽいのが好きなんですね。IT系なもんですから)
語>意>識我(覚)>大自我>非変異>神我(プルシャ)=自我(アートマン)
ということになって、こころの中の小宇宙と大宇宙が融合する。
途中に入る「大自我>非変異」というのも、なんとも面白い。(これがこのウパニシャッドの最高の個性)
そしてこの前半の 語>意 から始まるプロセスがヨーガであると。
そして、佐保田先生の注釈は以下の素敵なヨーガへのいざないでクロージングされています。
ヨーガ行は意識の動きを亡ぼすことにあるので、意識の動きが完全になくなったとき、自我は自分の方から現われてくるのである。『ヨーガ・スートラ』はその初頭に「ヨーガとは心の働きをなくすことである」と定義している。
佐保田先生の仕事は日本のヨガ界にありがたすぎる宝。この訳と注釈の関係に感動しました。
こういう定義リアライゼーションを、こころを題材に行なってしまう行為がヨーガなんですね。
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