うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アメジスト・タブレット・プロローグ 純粋冥想の道標 ダンテス・ダイジ 著

道場仲間が貸してくれました。古典派のわたしにしては珍しい本だね、と思う常連さんが多いかも。このかたのプロフィールはWikipediaにあるので、そちらをご覧になっていただくのがよいかと思います。

ちなみに、本のほうには以下のようなプロフィール記載がありました。

ダンテス・ダイジ導師(俗名:雨宮第二)
タントラ・ヨーガ・グル 坐禅老師
1950年2月12日〜1987年12月11日 享年37歳 東京生まれ)
もの心ついて以来、誰に教わることなく、坐禅冥想を続ける。
17歳、6月26日、神に目覚める。
18歳、道元直系の只管打坐により、心身脱落、大悟徹底。
以降、古神道の大要を体得する。
臨済宗において、見性を許される。
インドにおいて、ババジ直系のクンダリニー・ヨーガの究極の解脱に達する。


先に意向を書いておきますが、「○○だけは本物と認める」とか「○○はヨーガじゃない」とか、わたしはそういうことを発言する行為について、「正しくは、もっと別の言いかたではないだろうか」という考え方をします。
「○○はヨーガじゃない」→「○○はヨーガのこのような要素が、いまの人々が求める○○にフィットした。ヨーガが含まれたものです。なので、この部分(具体的に)はヨーガね」というように。要素を分解して話したい。
なので、この本の感想の中では、「○○が本物だ」「○○が真実だ」といった表現に対してはあまりコメントしません。断定されるのが好きな人も多いし、表現に対する好みの問題だからね。


紹介までの前置きが長くなりましたが、「なんだかややこしそうだ」と思わなくてもよいです。詩として読んで美しい部分が多いし、最後まで読むと普通に面白いはず。
ではでは、いきます。

<序文 より>
 ヨーガとは、純粋冥想へ到るための合理的な行為の連鎖的な体系である。したがって、ハタ・ヨーガから始まる全ヨーガ的な努力は、チャクラやクンダリニーというイメージやヴィジョンのマインド・ゲームではない、身体上の死の超越すなわち不死性の獲得たる真実のクンダリニー・ヨーガへ到達するはずである。

たぶん、あまりこのような文体に慣れていない。別の雰囲気での強い口調、学術的なものでは慣れているのですが。


<26ページ より>
アメンティー・タントリズム
アトランテス文明終末以後の
あらゆる冥想行法の
トータル・タントラ・ヨーガ
それらを私であるところの私自身は
タントラ・ヨーガと名付けることにする

(以後、項目。各説明は省略)
1.占星学
2.ソーマ・ヨーガ(ここでのソーマ=薬草などをケミカルに合成)
3.カーマ・ヨーガ(性愛交合)
4.気功導引法
5.ハタ・ヨーガ
6.マントラ
7.丹田
8.観想法
9.クンダリニー・ヨーガ
10.只管打坐

こういう定義をされている方です、という参考情報として引用紹介しておきます。


<48ページ より>
狂気とは、現代管理社会にとっての
不適応を示すにすぎない。
狂気そのものは、
死そのものと同様に、
単なる科学的客観的アプローチによっては、
解明することは、
決してできない。

精神科医のなだいなださんも同じことをおっしゃっています。
(参考:くるいきちがい考


<51ページ より>
客観的な死と
自分自身の現実的な死とを混同するなかれ。
他者の死に、自我のイメージを投入するなかれ。

「自分自身の現実的な死」なんて、死ぬまで具体的に感じようがないことを恐れるな、と。
死んだ後の周りの人のことを想像しても、そのときは、「死んだ人」なんですよね。


<67ページ より>
禅であろうが、ヨーガであろうが、
それが純粋なものであるならば、
個人的人格や、人格のいわゆる成熟を
問題にしない。
真実とは、人間の個人的人格性とは、いかなる関係も持っていない。

品格より純粋さを問いたい昨今、ここは刺さりました。


<83ページ より>
肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体、その他、名称はどうであろうと、すべては、ブラフマンの一つながりの夢という真実を、便宜上、分節したものにすぎない。

いわゆる通俗的クンダリニー・ヨーガの問題点の一つは、
アストラル体以下の各チャクラの機能を過大視する余り、ある種のイメージや、夢想的ヴィジョンを、本物の霊的ヴィジョンと思い込んでしまうところにある。

ブラフマンの一つながりの「夢」とは、なかなか小粋です。
通俗的クンダリニー・ヨーガの問題点については、内藤景代さんも同じようなことを書かれていました。


<104ページ より>
人類の全努力は、
純粋冥想に打ち込むための
余暇を作ることにある。

快楽は苦痛であり、
安心は不安であり、
満足は不満足であり、
悟りは迷いである。
これでよいのだ。
それでよいのだ。
ただし、君は決して、これもそれも信じてはならない。

バカボン的です。


<106ページ より>
それが、禅であろうとヨーガであろうと、究極的解脱への途上では、必ず六神通が経過される。

それが、只管打坐のような純粋禅であっても、六神通を通過しないで、心身脱落に達することは、まずあり得ない。ただ、空に達するまでの修行速度が速い場合には、魔境や諸神通を、ほとんど自覚せずに通過してしまうことはあり得る。

六神通の内容とメンタル体・チャクラとの対応。
神足通(念力)・スワジスターナ・チャクラ
宿命通(低次透視)・マニピュラ・チャクラ
他心通(テレパシー)・アナハタ・チャクラ
天耳通(高次聴覚)・ヴィシュダー・チャクラ
天眼通(高次透視・純粋直観)・アジナー・チャクラ
漏尽通(諸欲望の滅尽)・ムラダーラ・チャクラがサハスラーラ・チャクラに包含される。

○○通という名称とチャクラの対応メモ。テレパシーは、「ハート」なのよぅ♪


<114ページ より>
個別性の世界から見れば、
すべては、二元対立であり、
その対立に終りがあってはこまる。
統合性の眼から見れば、
あらゆる相対は、相互扶助になる。

コインの表と裏のお話です。


<127ページ より>
底抜けのほがらかさに至らざれば冥想にあらず。
単純極まりない素朴さに至らざれば冥想にあらず。

ここ好きです。
「レ〜レ〜レ〜のレ〜」ぐらいが底抜けの目安でしょうか。


<135ページ より>
水晶のように透明に、
あるがままの素直さで、
何かに直面することによっても、
神は開示される。
直面するものは何でもいいのだ。

ヨガの話じゃないのに話が合う人にわたしがよく言うこと。「それってヨガじゃん!」


<147ページ より>
愛情は、
あなたなしにはあり得ないが、
愛は、
あなたがあったら目覚めない。

日本人にはわかりにくいなぁこれ(笑)。
愛情は、「○○」なしにはあり得ないが、は、「○○」があったら目覚めない。
「○○」には漢字2文字かカタカナ2文字が入ります。
あなたがそう思ったものが、正解です。
答え合わせをする必要はありません。
この部分の、読み方のアイデアね(いいっぱなしで逃げるよw)


<151ページ より>
愛着は憎悪を内に含んでいる。
愛情は悲しみを内に含んでいる。
そして、全面的悲しみは、
愛へ変容する可能性を持っている。

なんだかミラレパたんみたいなことになってきましたよ。


<161ページ より>
カーマ・ヨーガ行法要領。
1、相手となる女神は、処女か、あるいは純真な心の持ち主でなければならない。
2、少しのこだわりもない全面的な愛情関係でなければならない。
3、女神には、失神または熟睡に至るまで何回でもオルガズムを与えねばならない。
4、男神であるカーマ・ヨーギは決して射精してはならない。
5、性行為終了後、冥想修行に入る。

これはこの本に限った話ではないってことで、このあたりへの感想は、過去ログ「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー(「ヨーガ根本教典」より)」にがっつり書いてます。とくに後半。


<175ページ より>
ブッディズムの「空」
禅の「無」
老子の「タオ」
トルテック呪術の「ナワール」
などの名前は、概念や観念を否定しようとしてつけられた名前だ。
したがって対象的なものにはなりえないから、君の人生のささえにはならない。
それに対して、
古神道の「神」
エスの「エホバ」
バクティ・ヨーガの「クリシュナ」
マホメットの「アラー」
ゾロアスターの「アフラ・マツダ
マントラ・ヨーガの「オーム」
などの名称は、対象的なものになりえるから、もしそこに祈りが含まれていれば、君自身の感情やアストラル体を浄化する作用があるから、多少は、君の人生のささえになる。
しかし、一つのさあえに固執すれば、君の人生が、ゆがんだものになる可能性が、つねにあることを忘れてはならない。
もっとも、
全体性は、ゆがんだものも必要としてはいる。

「もしそこに祈りが含まれていれば、多少は、君の人生のささえになる。」「もっとも、全体性は、ゆがんだものも必要としてはいる。」
ここメモですよメモ。


<178ページ より>
西洋科学は、
物質という虚無を分析応用する知性であるから、一つの呪術であり、
思考という物質が、主人になっているから黒呪術である。

とても美しい詩のよう。そしてやっぱり用語がミラレパたん的な……


<179ページ より>
堕落と管理化は、同じものであり、
これが進行すると、
本当の恋愛も、
本当の一家団らんも、
本当の遊びも、
本当の仕事も、
本当の芸術も、
本当の冥想も、
つまり、あらゆる幸福は消え去ってしまうであろう。

このへんからなんだかちょっと、「盗んだバイクで走り出しそうな」感じになってきます。


<182ページ より>
単純明快にして、
完全円満なる何ものかが失われたので、
ブッダなぞというコワッパが、
シチメンドクサイ教理や修行を、
でっちあげざえるを得なかったのだ。

ああ、シチメンドクサイ!

ああ、走り出しちゃった〜。


<210ページ より>
ヨーガとは、
あらゆるリアリティーを
総合的に楽しむ
楽しみそれ自身だ。
それは総合であって統合ではない
統合は
すでにある、
いたるところに!

そして明るいんです、最後のほう。



なんか最初のほうは、ちょっと怖い感じがしていたのですが、読み終えたあとは、「あの人、支離滅裂だったけど、あんなことも言ってたっけ……」と、まるで昔の恋人の発言を振り返るような、そんなフシギ感。
珍しいタイプの本だと思います。こう、インド系の本に読みなれるとついてくる「運動神経的に乗り切る二面文体」みたいなものがあるのですが、その点においては初心者向けの本ではないと思いました。

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