うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

クンダリニー ゴーピ・クリシュナ著 / 中島巌(翻訳)

この本は、練習の予備知識のないまま毎日瞑想をしてクンダリニーが覚醒してしまった人の振り返り自伝です。
このように書かれています。

 しばしば私は、この驚くべき光る力の働きを唖然として眺めていた。クンダリニーが私の中ですっかり覚醒したことにもはやなんの疑いもなかったが、これに関連づけて昔の人々が語り伝えてきた心霊的、精神的な奇跡の力は、私の場合、何も発現しなかった。自分がよい方向に変わった様子もなかった。その反対に、私の身体はかなり傷めつけられており、頭脳もまた安定した状態とはとてもいえなかった。本を精読することも、心を一つにして仕事にうちこむこともできなかった。精神集中を少し続けようとすると、決まって異常な状態がひどくなった。注意を持続させると必ず、頭部の光の輪がぐっと拡大し、それに伴い、かなり穏かな形で、しかもごくたまにしかあらわれなくなってきた恐怖感が、また私の誤った楽天主義にとらわれていたことに気づき、注意を怠ったことを自ら厳しく反省して、即座に食事に十分注意することにした。
(232ページ 覚者と現実 より)

現状に不満を抱えて瞑想に打ち込んだ人のレポートなので、ちょっと独特のおもしろさがあります。


この本は読み始めるまで、自分は特別だと思いたいよくあるヨーギーの話だろうと思ってどうにも手を出す気になれず、ずっと本棚に置きっぱなしにしていました。昨年インドから戻った後にシャクティ信仰に関する本をいくつか読み、その流れでちょっとチャレンジしてみるかと、久しぶりにこういう本を読みました。


年表がなく著者の経験記憶の話が行ったり来たりするので、シャクティクンダリニーの概念以前に当時のインド人の生活について予備知識がないと、信じたい部分のみを太く拾い読みしてしまうことになりそうな構成です。本人が21歳で奥さんが15歳。ガンジーの時代よりは後だから幼児婚とまではいかないけれど、そのくらいの時代感。
年表ベースで整理すると、このようになります。

  • 1903年 生 カシミール
  • 1920年(17歳)進級試験に落ちる。瞑想をはじめる
  • 1937年(34歳) はじめての神秘体験(クンダリニー覚醒)
  • 1938年(35歳) のちに「試練」と語る経験をする
  • 1950年(46歳) カシミール州政府職を辞職
  • 1960年代 充実した活動を展開し始める
  • 1970年代 12冊の本を出す
  • 1979年(76歳) 詩も収録した「きたるべき事件の形相」という本を出版
  • 1984年(81歳) 没

詩も収録した本についてピックアップしたのは、ハタ・ヨーガの教典には瞑想によって賢者になるという記述をするときに「詩人になる」という記述のしかたがあるためです。

 

インド人なら瞑想や神秘体験について知っているということはなく、それは日本人なら忍術や忍法を知っているだろうと思うのと似ています。神秘体験という現象には親しみがあるけれどよく知らない。著者の周囲はこんな反応だったそうです。

私の不機嫌が実はクンダリニーと深い関係のあるヨーガの実習の結果らしいといううわさが一部に広まると、いろいろ口実をもうけては私のところにやってきて、もっと詳しくいろいろ説明を聞きたいとしきりにせがむ、もの好きな人間も出てきた。彼らは超能力の実演みたいなものを見せてもらって、私が人間と神をへだてている境界線を実際にこえたということを確かめたかったのであろう。わからないのでむりもないが、多くの人間は、クンダリニーが目覚めればすぐにでも超能力者になれると思っているようだった。
 大多数の人は、人間意識から宇宙意識への飛躍がほんのひととびで、しかるべき導師の助けや精神的訓練により、敷居を一つまたいで小さな部屋から大きな部屋に移るような具合に、安易でかつ安全であるという考え方をしているようである。
 こうした誤った考え方は、しばしば信じやすい人間の弱点を利用して暮しを立てている無能な教師によってふりまかれている。彼らは自分にはヨーガの心得があり、弟子たちに積極的な効験を与える能力があるといいながら、人間進化の学としてのヨーガが過去数百年全くすたれてしまっているという事実に気づいていない。彼らは昔の導師たちの著作をそっくりおうむ返しに話しているだけで、彼らとて、それについて教えているはずの生徒たちより深く知っているわけではないのである。
 昔は、クンダリニーの覚醒がいかに重大かつ困難なことかということは十分認識されていたのであって、これにあえて挑戦しようとする人間は、世俗的な責務をすべて捨て去り、精神的にも禁欲的な態度を徹底させて、どのような圧力にも臆することなく、結果として起こるいかなる事態をも平然と甘受しようとしていたのである。
(120ページ クンダリニーの覚醒 より)

わたしはここにある「彼らは自分にはヨーガの心得があり、弟子たちに積極的な効験を与える能力があるといいながら、人間進化の学としてのヨーガが過去数百年全くすたれてしまっているという事実に気づいていない」という指摘が冷静だなと思いながら読みました。
努力の成果と特別さをイコールにしようとするときって、ゆきすぎた孤独感があるのじゃないかと思う。ゆきすぎの境界がわからないところが恐ろしさでもある。

 

 

以下の振り返りも、とても冷静です。

 クンダリニーのことについて、これまで少しでも本を読んだりしたことのある読者は、本書がチャクラとか蓮華のことに不思議とあまりふれていないことを、いぶかしく思っているかもしれない。しかし、そうした概念をふりまわすことは、実際の現象の科学的価値をおとしめることになるのである。プラーナーヤーマ(調息法)、神経叢の瞑想、坐法などの行法を中心にしたタントラ派の方法で、私自身ヨーガを実習したことはないが、もし私が蓮華の存在を確信してそうした行法をやっていれば、脊髄にそったさまざまな神経節に見える光の塊とか輝く円盤を、蓮華と思いこんでもむりのないことであったであろう。また、私の想像力がかなりたくましく働いて、その中に、あらかじめ図などで頭に入っている文字や神像をはっきり看取しえたかもしれない。
(182ページ 内なる進化のエネルギー より)

この最期の一行の冷静さ。予備知識を想像力で調理して外に出すのは自分だという、エゴの主体を見落とさない書き方をされています。

 


しかしながら、
だのにーーーー、なーーーぜーーー、という記述もあります。

 ところで、自分の身体の中で起こっている生と死の闘いにおいて、肉体の所有者たる私としては、手も足も出せないまま、じっと横になって、私の中でくりひろげられる奇妙なドラマを傍観するよりほかはないのだということを本能的に感じていた。私のおかれていたこの状態は、男神シヴァと女神シャクティを描いた古画の構図によって、かなり的確に表現できる。その中で、シヴァはなすすべもなく、仰向けになってじっと横たえているが、シャクティは無慈悲にもそのシヴァを踏みつけて楽しげに踊っているのである。
 私の内なる自我、意識ある観察者、肉体の自称所有者は完全に舞台のうしろに追いやられ、私は自分が考えたり、感じたりすることを無視して行動する畏敬すべき力に、面子面目を捨てて、ひたすら帰依し、何か起こっているのかも知ることができぬまま、自分の肉体がその力のなすがままされていくのを黙認するほかはなかった。シヴァとシャクティとのそうした絵は、私と同じような試練を経験した行者によって、私と同じような状態を表現するために案出された構図ではないかと思っている。
(159ページ 銀色に輝く風景 より)

ここはインド人らしい微笑ましさ。わたしは「王子様」というものにそれを感じるのですが、日本人の女性がイメージする王子様はディズニー的でも皇室的でもなくジャニーズ。昔は城みちる。それと似たような感覚かなと思いながら読みました。あんだけ街に神様のブロマイドやポスターがあったらそうなるだろうなと。


この本の著者は、特別な体験の前に職場環境に不満を抱いていたり、そもそも瞑想を始めるまえからの家庭の問題や、父親の生き方をなぞっていることについても目を背けずに振り返っています。著者の冷静さと陶酔のバランスを楽しみながら読みました。

 

クンダリニー

クンダリニー

 

▼参考まとめ

yoga.hatenablog.com