うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ハタ・ヨーガ・プラディーピカー(「ヨーガ根本教典」より)

ハタ・ヨーガ・プラディーピカー
2年半前に「ヨーガ根本教典」について書きましたが、今日はそのなかに収録されている「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」について書きます。初めてこれを読んだとき、女性としてかなり驚く記述があり、そのことについてどのように書いていいものやらと思い続けて、ずっと寝かせていました。安易には書けないなぁと。今日は長くなりますよ。
先日紹介した「ヨガと冥想―入門から神秘体験へ」のなかの内藤景代さんの以下の記述をきっかけに、「これ、書くかなぁ」という気になりました。
まずそのきっかけをいま一度、引用紹介します。

<135ページ よこのチャクラと、たてのクンダリーニ より>
古来からのチャクラ覚醒法は、「よこ」方向ではなく、下から上昇する「たて」方向のクンダリーニ・シャクティの荒々しい力で、蕾のように封印されたチャクラを突き破れば、チャクラは開花するという方法です。
 まったく、男性原理的な発想で、まるでチャクラは強姦される処女のような話です。チャクラの機能が狂ってしまう可能性のほうが多いのです。

これを読みながら、「ああ、恐ろしく男性上位な感じにびっくりした、あの部分だな」とピンときまして、内藤さんが「男性原理的な発想」「強姦される処女のような話」という表現をされているところにも、そのような強い表現が出てくるきっかけに、女性として頼もしい共感を得たんです。


ヨーガの古い教典を読んでいると、「ヨーガって、男性都合のものなんだなぁ」と思うことが多々あるんですね。男子諸君が「ヨガ教室って、女性ばっかりで気後れしちゃうんですよね……」と言っている状況から相談を受けることがとてもよくあるのですが、うちこから見たらもう、抱きしめたくなるくらいかわいい相談なんですよ。
いまみんなが「ハタヨガやってます〜」というのは確かにハタヨガです。ただ、古い教典のなかには左道密教的な思想が一部に含まれています。左道密教って言われても、「は?」ですね。かいつまんでいうと、「性愛的な要素を男性都合で肯定する要素をはらむもの」です。この「男性都合」と感じた(私見)ところが、初めに書いた「女性としてかなり驚く記述」です。
わたしはその後、「愛のヨガ」という本を読んでみたらぜんぜんこの違和感を紐解くような内容の本ではなくて(性愛ヨガの本ではなかった)、選択をスベったりしています。2年半くらいまえから、この違和感についてはなんとなく気にしながら、自分なりに密教の教えの世界を学んでいたんですね。


いちいち前置きが長くなっちゃうのですが、うちこはこのへんのことについて思いあぐねるとき、最澄さんに「理趣経、貸して」と言われて「簡単には、貸せないのだよ・・・。むうぅ。なんか俺、イジワルみたいじゃんかよー」と悩んだ空海さんの気持ちが、すごくよくわかるんです(なんていうのもおこがましいのですが)。
てんで修行の浅いうちこが言うにはまだまだ早いのですが、実践を経ると、理解はできなくても「理解のための想像力の範囲」が多少は違ってくると思います。どこを境目に「興味」が「理解」を超えてしまうのかも、その人なりにわかってくると思います。
なので、短絡的に密教における性愛的な描写に興味をもたれると、ヨーガが誤解されてしまうという点で、わたしの中ではとても慎重な扱いをしてきました。日本では、ある教団による事件によってヨーガが誤解されたり、それ以前にも同様の扱いを受ける歴史は繰り返されてきました。


そんな流れで、空海さんに共感しながらヨーガと付き合っているというわけなのです。
わたしたちは、日本人です。インド発の仏教が身近にあり、ヨーガで繋がっています。なので、そこは紐付けながら、最初に知っておくとずいぶんと理解がかわる「時代の流れ」について書きます。


<ヨーガと密教とインドと日本の歴史>
■「ヨーガ・スートラ(瑜伽経)」は紀元五世紀ごろ(成立は2-4世紀)、サーンキャ・ヨーガの思想発展の中で生まれ、残されたものです。

密教の教典「理趣経は、不空が763年から771年にかけてサンスクリット語から訳したといわれるので、8世紀。その弟子(恵果)の弟子が、空海さん(9世紀)。不空さんは、空海さんのパラム・グルね。

■「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」は、ヨガの呼吸法からムドラーからアーサナまで、わりと肉体的な修行についてがっつり書かれた教典。17世紀。すんごい後です。「タージ・マハル」造りはじめた頃ですよ。日本で言うと、「生類憐れみの令」とか。最近よね(←この感覚、よく変だと言われますが ^^;)


空海さんはハタヨガ以外の行をすべて行じた人といわれたりしますが、実際教典として残されているハタヨガ自体が、ものすごく後です。でも、真言宗のお寺で僧侶さんたちの動作がスクワット的であったりチャトランガ的であったり(リンク先末尾参照)するのを目にしたことや、真言密教の『金剛頂瑜伽中略出念誦経』に蹲踞坐(そんこざ)なるものの記述を発見したりして、空海さんは、いわゆる今みんなが言う「ハタ・ヨーガ」的なものとしては実践していなかったとしても、同じように瞑想に入る前段階としてハタヨガ的なことを行なっていたんじゃないかな、と思います。(憶測の域を出ないのが残念ですが)


さてここから、「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」に入っていきます。
今日はものすごく女性的な視点で書こうと思います。って、わたしはそもそも女性なのですが、性別を感じないとか、中身はオッサンじゃねーか言われることが「ものすごくよく」あるので、今日はあえて「わたしが女性としてこう感じてしまう、"ハタ・ヨーガ・プラディーピカー"」について、なるべくニュートラルに書いてみようと思います。

冒頭にも書きましたが、2年半前に紹介した佐保田鶴治博士の「ヨーガ根本教典」という本には、『ヨーガ・スートラ』のほかに、16〜17世紀にスヴァートマーラーマさんという人によって残された『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』という教典が収められています。まずその教典の背景と、それがどんなものなのか、そのまま博士の言葉と解説を引用します。

<37ページ ヨーガ思想入門 より>
ハタ・ヨーガ ── このヨーガの祖はゴーラクナートという名の聖者であるといわれる。この人は十三世紀の初めの頃にインドの北部で活躍し、シヴァ派に属するゴーラクナーティーという一派を開いた。ゴーラクナートは、「ハタ・ヨーガ」と「ゴーラクシャ・シャタカ」の二書を著したと伝えられているが、前者は伝わっていない。その後十六 ─ 十七世紀になってスヴァートマーラーマは「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」を書いてこの流派のヨーガを明快に紹介した。次いで「ゲーランダー・サンヒター」が現われた。シヴァ派の聖典「シヴァサンヒター」はその一部をハタ・ヨーガの解説にさいている。
 ゴーラクナートの一派はシヴァ派の一派であるが、シヴァ神の妃シャクティを崇祀するシャークタ派と緊密な関係にあって、インド教のなかの密教(タントラ)に属している。従って、ハタ・ヨーガ密教的なヨーガなのである。ハタ・ヨーガはサーンキャ・ヨーガとは全く違った性格を持っている。サーンキャ・ヨーガは心理的な作業を主としたが、ハタ・ヨーガは肉体的・生理的な操作を主としている。またクンダリニーという女性的な原理を重んじ、さらに左道密教的なエロチシズムを含むところはインドにおける密教の末期をかざった密教的仏教に似ている。
 現代におけるハタ・ヨーガの意義は大きい。ヨーガとして世界にひろがっているものの大部分はハタ・ヨーガである。ヨーガの福音の中心要素はハタであるといってもよい。

まずひとつ、インドの北部と南部のヨーガの違い・背景がここから読み取れます。ヨーガ・スートラの「ヤマ」「ニヤマ」から発する八肢則から発展するアシュタンガは南部から広がっています。北部はチベットに近く、チベットではタントラ密教が栄えます。
「ハタ・ヨーガはサーンキャ・ヨーガとは全く違った性格を持っている。サーンキャ・ヨーガは心理的な作業を主としたが、ハタ・ヨーガは肉体的・生理的な操作を主としている。」とあります。
サーンキャ・ヨーガ、ヨーガ・スートラからの流れに沿っているアシュタンガのほうが、実際のところでは"筋肉痛的な意味で"「肉体的」な印象を受けがちですが、思想定義的にはそうではないのです。
ただ、このあと深堀りしていきますが、「ハタ・ヨーガは肉体的・生理的」という点について、どちらかというと語感の印象的に「肉体的<生理的」です。


ここでまた佐保田博士にバトンタッチ。

<58ページ ハタ・ヨーガの思想構造 より>
「ハタ」ということばの意味は「ちから」という意味です。ハタ・ヨーガとはちからをこめてなすヨーガ、または、はげしいヨーガという意味です。インドの伝統的な解釈では、ハタは日と月、または呼吸を表わしているとされていますが、教義的解釈に過ぎません。
 ハタ・ヨーガの思想的構造は割合簡単でありますし、プラディーピカーの叙述が、ヨーガ・スートラとはちがって、組織立っておりますから、プラディーピカーをご覧になれば容易に理解できることと思います。
(中略)
 ハタ・ヨーガの根幹をなしているのは調気法(プラーナーヤーマ)であります。調気というのは気(プラーナ)をコントロールするということです。気というのは、人間の身体のうちにあって生命活動をつかさどるエネルギーのことであります。気というのは、人間の身体のうちにあって生命活動をつかさどるエネルギーのことであります。この気はもともとは宇宙にいきわたっているものであって、われわれは呼吸によって空気とともに体内に取り入れるのであります。従って調気法は呼吸と不離の関係にあることは申すまでもありませんが、単に呼吸法ということではありません。調気法の本質はクンバカ、すなわちイキを止めておく操作にあるのであります。
 調気法と密接な関係にあるのがクンダリニー(或はクンダリー)です。クンダリニーは平素は背骨の最下端に潜在しているエネルギーですが、これを覚醒させる、つまり活性化して背骨の真中を通ずるスシュムナーという管のなかを頭の頂上まで貫き上らせることが修行の最大の狙いです。もちろん、スシュムナーもクンダリニーも肉眼で見えるものではありません。
 クンダリニーがスシュムナーを貫きますと、プラーナがこの同じ管のなかを自由に流れるようになって、この管の六ヵ所にあるチャクラ(センター)が活性化することになり、それぞれのチャクラに眠っていた才能が発現するようになります。そうして遂にはプラーナが頭の頂近くにあるブラハマ・ランドラという神聖な室のなかへ流れ込んでしまった時に、三昧の状態が現われて、ハタ・ヨーガの理想は実現するという次第であります。
 かのクンダリニーという潜在エネルギーを活性化するのも呼吸のいろいろな仕方とカラダのいろいろなポーズとの組合せであるムドラーの結果でありますから、ハタ・ヨーガの根幹は調気法にあると申してよろしいのであります。詳細については、プラディーピカーのテキストそのものに譲ることにします。

「ハタ・ヨーガの根幹は調気法にある」と佐保田博士がおっしゃっていることを、わたしがめちゃくちゃかいつまむと、先に書いたとおり「肉体的<生理的」です。


さて、ここからは具体的に『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』内の記述を引用していきます。以下全て、『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』内の「第三章 ムドラー」部からの引用です。
そして、誤解のないように書いておくと、これは「ムドラー」の行法説明であって、よく誤解される「性愛ヨガ」ではありません。めちゃめちゃまっすぐに、「ムドラー」取得の手順として記載されている流れです。と書きたいところなのですが、三・一○二の項目に「この結構なヨーガは、享楽を味わうなかで解脱を与えるのである」という記述があり、博士は「ここには、はっきりと仏教でいう大楽思想、つまり左道密教の思想がうたわれている。」と補記されています。
あと、参考までですが尿道を使う系の話は、沖正弘先生の「ヨガの楽園 秘境インド探検記」にちょこっと出てきたりします。(日記では引用してません)


本の中で、各項目の冒頭に〔○○○〕のように記述されているものは、全般その言葉の定義を記載しているスートラにあたります。ここでは、
〔ヴァジローリー・ムドラー〕
〔サハジョーリー・ムドラー〕
〔アマローリー・ムドラー〕
〔ヨーギニー〕
〔ヴァジローリーの効果〕
の部分を流れのままに紹介し、各〔○○○〕ごとにコメントを挟みます。

三・八三
〔ヴァジローリー・ムドラー〕ヴァジローリーをよく心得たヨーギーは、ヨーガの教えにうたわれている戒を守らず、思いのままに振舞いながら、霊能力の容れものになる。


三・八四
この行法を修するには、常人には得難い二つの必要条件がある。その一つは牛乳であり、他の一つは従順な婦人である。


三・八五
射精し終わるや、ゆっくりと、適正に精液を吸い上げることを習熟すべし。男性はもちろん、女性でもヴァジローリーに熟達することができる。


三・八六
それには、この練習に適した管を使って、用心深く、そろそろと、空気がうまく入るように、陰茎の入口へイキを吹き込むべし。
(ここに博士の補記がありますが、男性陣は読んでいるだけで痛くなると思うので割愛します)


三・八七
この行法によって、女性の膣内に一旦落ちこぼれたビンドゥを、再び引き上げることができる。一旦漏らしたビンドゥは再び回収して、精気を保全すべきである。


三・八八
ヨーガの道を心得た人は、かようにしてビンドゥを漏らすことによって死があり、ビンドゥを保全することによって生がある。


三・八九
ビンドゥ保全によって、ヨーギーの体内に香ぐわしいかおりが生ずる。ビンドゥが体内に全(まつ)たきかぎり、死の恐れはどうしてあり得よう。


三・九○
人間の精液は心に依存し、生命は精液に依存する。それ故に、精液と心の保全につとめなければいけない。

そもそもこの教典、全編そうですが、主語は男性。ひとまずそれだけ覚えて読みすすめてください。

三・九一
〔サハジョーリー・ムドラー〕サハジョーリーとアマジョーリーはヴァジローリーの種別である。
 牛糞を焼いて作った灰を水に混ぜて


三・九二
ヴァジローリーの性交を行なった後、快感の高潮に達して、性のいとなみをやめた男女は、気持ちよく坐って、この水を自分のカラダに塗るべし。


三・九三
この作法はサハジョーリーとよばれ、いつもヨーギーたちによって信頼されてきた。このヨーガは吉祥(幸福)をもたらし、福分をそなえ、解脱を恵むものである。


三・九四
このヨーガは徳を積み、勇敢にして、真理を直観し、ねたみ心のない人びとによってなしとげられる。そねみ心のある人びとには決して成功しない。

一連の流れで引用しています。よくある「ああ、そうでしたか」系の教典記述ですが、最後の項目は「シャンティじゃない覇権欲男はやってくれるなよ」ということでしょう。

三・九五
〔アマローリー・ムドラー〕水の流れの初めの部分は胆汁分が適度なので捨て去り、最後の部分は精分を欠くから捨て去って、冷たい中間の部分だけを貴び用いる。これがカーパーリカ派の宗旨でアマローリーとよばれるものである。

★博士補記:ここの「水の流れが何を指しているのか判然としない。インド人の註には「シヴァの水」とあるが、この説明がまた不明である。シヴァにささげた水とも考えられるが、シヴァにはペーニスの義があるから、精液のことかとも思われる。次の節を見ると、この水はアマリーとよばれるものである。「シヴァの水」とは尿のことだという。


三・九六
毎日、匂いをかぎながらアマリーを飲用し、そしてヴァジローリーを適正に行ずるならば、それがアマローリーとよばれるものである。


三・九七
アマローリーの行によって流出した甘露(精液)に灰を混ぜて、上半身の部分に塗りこむべし。そうすると天眼(霊視能力)が生ずる。

「毎日、匂いをかぎながらアマリーを飲用」する主語は全体観に習って男性であって欲しいところですが、「ヴァジローリーを適正に行ずるならば」のヴァジローリーは、「婦人を用意しなさい」の行法なので、なんとなく読んでいて混乱します。まあここは掘り下げるところではないので、流します。

三・九八
〔ヨーギニー〕男子が適正な行法を巧みに行なってビンドゥを回収した時、婦人がヴァジローリーをもってラジャスを保全するならば、彼女はヨーギニー(女行者)である。

 博士補記:ラジャスは月経のことであるが、ここでは性交時の女性の分泌物であろう。


三・九九
彼女のラジャスは、疑いもなく、いささかも失われない。その時、彼女のカラダのなかで、ナーダの音はビンドゥ(空点)に合一する。


★博士補記:ナーダ音はスシュムナー気道からから発する微妙な音である。ビンドゥは精液を意味することもあるが、ここでは空点といってオームという字の上にある一点である。この一点は無音の音を示している。ここでは、婦人が性交的歓喜にひたる忘我の心境と、両性の分泌液の合流とをあわせ諷示している。

はい、ここメインです。この教典の中で、行者を定義する表現〔ヨーギニー〕がこのように残されている点に、うちこは最初このお教典を読んで、びっくらこいちゃったわけです。「ヨギーニ」っておまえ、えらいこっちゃでと。ただのキャッチコピーみたいな通称とはいえ、「とはいえこれはー」と、なんだかしこり的な感覚を得てしまったわけです。
それが、〔ヴァジローリー・ムドラー〕のところで、「こらこら、わしらは容器かいな」とうっすら思った後に出てきたものですからね。
そんでもって、さらに次のコメントに続きます。

三・一○○
〔ヴァジローリーの効果〕男性のビンドゥと女性のラジャスは、ヴァジローリーの行によって、自己のカラダのなかで合一して、あらゆるシッディ(霊力)を与える。


三・一○一
婦人が自分のラジャスを回収して、それを保全するならば、彼女はヨーギニーである。彼女は必ずや過去と未来を知り、空中を歩むことができるであろう。


三・一○二
ヴァジローリー行の修習によって肉体のシッディを得る。この結構なヨーガは、享楽を味わうなかで解脱を与えるのである。


★博士補記:ここには、はっきりと仏教でいう大楽思想、つまり左道密教の思想がうたわれている。

「自分のラジャスを回収して、それを保全するならば、彼女はヨーギニーである」なんて、後付けで言ってくれなくていいからさ、なんて思ってしまうわけです、流れ的に。


そして、最後の〔ヴァジローリーの効果〕の箇所は、「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」に比べたら、理趣経の内容なんてぜんぜん奥ゆかしいじゃん、と思ってしまうところで、空海さんとヨガの話になるわけです。

そしてそしてやっぱり、佐保田先生は仕事人だなぁ。って思う。訳しているうちに空海さんみたいな気持ちになって「誤解してくれるなよ」と言いたくなるところでもありましょうに、そこは記載の事実を伝える仕事として、しっかり切り分けてる。佐保田博士は、自分を「グル」「聖師」として扱わないで欲しい、というスタンスを貫いた人。この仕事のプロフェッショナルっぷりを見たら、そんな安易に「グル」なんて言えないですよ。スーパー博士だもの。
そして、同様に沖先生もすごいですよね。佐保田先生は教典を通して、沖先生はインド修行を通じて、そういう教えがあることがわかったうえで、神道と仏教の国である日本のヨーガ文化の土台をつくってきたってことなんだものなぁ。そのうえ、追っていくとどちらもめちゃくちゃチャーミングだし、ギャグセンスあるし(天然みたいだけど)。


あー、すっきりした。
なんだかなりゆきでフェミニズム論ぽくなっちゃったので(ならざるを得ない内容だからね)、最後にいちおう書き添えます。わたしはヨガ男子も禅男子も、友人として仲良くしていただいている人はみんなとってもジェントルマンでシャンティで、素敵と思っていますよ。今日の話はあくまで、古典ヨガの一面を紹介してみたまでです。