うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

疑いの可能性をまとう生活という、あたらしいストレス

先日の4連休中に、海外の友人と長電話をしました。
ひとりはタイ、ひとりはベトナム。それぞれといろんな話をしました。
各国でパンデミックへの対応が違うなか、適応するのに苦労している習慣や行動について話しました。
ベトナムにいる友人と話しているときに、自分の中にふとこんな思いが浮かんできました。

 

 

 自分は、疑いの可能性をまとう生活という
 あたらしいストレスの長期化に疲弊してきているのではないか

 

 

疑いの可能性をまとうというのは、感染をしたあとに想像される世間の冷たさを漠然と脳内でイメージして、不誠実なことをしたと言われる可能性をつぶしていこうとする、そういう思考。
年齢を重ねてきたこれまでのなかで、それなりに「世間の冷たさ」を思い出すつらい記憶の材料がいくつかある。嫌なイメージがわくと、その記憶に紐づけて物語を走らせる。それ以上に「人のあたたかさ」も多く経験してきていて、だからいまの自分があるのに、なのに絶望を多く見積もろうとする。そういうふうにプログラムされているかのよう。

 


わたしは3月後半~4月頃、会った人の何人かと「小学生が "えんがちょー" とかいってやるような行動を大人がやっている状況に戸惑っている」という話をしていて、8月にもなればさすがにもうそういう感じでもなかろうと思っていました。
パンデミックは収まっていなくても、「ここにウイルスをばらまいた人がいます!」という調子ではなくなるだろうと想像(この場合は、期待かな)していました。自分の周りに限れば誰もそんなふうに断罪口調で話していないけれど、それでも誰もが漠然と捕物帳の登場人物になることを恐れてる。


不運よりも失敗と扱われることが増えていくことは、どういうことだろうか。不運は不運としてとらえたいと思うのは、失敗したとみなされたくないという考えからくるものだけど、これはそんなに強い我欲だろうか。プライドが高すぎるだろうか。謙虚さが足りないだろうか。

 

感染者が出たときはエリアごとテープが張られて隔離されるけれど、人々の発言から「大丈夫か、なにか力になれることはないか」というムードが漂う環境と、「やっちまったか」「やりやがったな」という視点で報じられる環境では、ストレスの性質が違う。
外国に住む友人が話してくれたちょっとエエ話を聞きながら、「やりやがったな」の色が濃い環境で暮らすしんどさを整理しました。