早いもので今年も残りわずかとなりました。
わたしは毎日いろいろなことを考えて生活していますが、ネット上に自分の予定を公開しない生活に変えてから意識の整理がしやすくなりました。
以前は日時場所&申し込みフォームを見た人なら、初めての人もリピーターのかたもどなたでもどうぞと、まるっと開いたヨガの練習の場を回していました。スタジオに管理人さんがいてくれる場所で、のびのび活動していました。
わたしはもともと、「場」について考えることをしたくてこの個人活動を始めました。「場に人がつくのか、人が場になるのか」という問いを繰り返してきました。
この活動(個人でのヨガクラス開催)をはじめる前は、複数のインストラクターが複数の教室でシフトを組む組織で活動しており、わたし自身と場がイコールになることはありませんでした。当日になって担当が変更になることもあり、インストラクター個人のスケジュールは非公開の運用。これはこれで、のびのび活動していました。
個人で「どなたでもどうぞ」を始めたのは2012年頃からで、銀座や市ヶ谷で活動するようになった2013年以降は、もともと通訳で参加する予定だった単発イベントのワークショップが中止になるトラブルを機に、そのまま同スタジオで開催を重ね、ほぼ毎週やるようになりました。
わたし個人活動はこのように、代行の延長からの始まり。なので「ほんとうはこうしたい」という「ほんとう」がないまま歩き続け、何年もの実践を経て、それはあとから見えてくることになりました。
今年、特に緊急事態宣言以降からは「こうしたい」を自分のなかでより具体化しなければならない展開になりました。いろいろな行為を試しながら、いまもその意識を観察し続けています。
時代の流れもわたしなりに観察してきました。今年は世の中にオンライン・ヨガの提案が多くなり、安全を優先して家でやりたい人はYoutubeやオンラインで!という流れになりました。すでに習慣化させたものをやめたくない人のためのオンライン・ヨガは、もともとリアルで醸成された関係性の延長線上で成り立っている。オンラインはそんな二極化の方向かと思います。
そしてこれからはオンラインで資格をとったオンライン・ネイティブのインストラクターも登場していく時代。それ用の立ち回りや設計で行う方法も進化してゆくことでしょう。
わたしはオンラインは Zoom で、4月と5月に何度か試しました。前後左右だけでなく角度や目線など、挙動や体位の指示をキャッチできる耳を持った人に参加してもらい、何回も試しました。画面越しで認識が左右反転することもある状況を脳内変換できる人たちと一緒に実際に遠隔で動いてみながら、図解を挟んでできるメニューを毎回考え、その状況で人がどこまで動けるかを見てきました。
もちろん、自分が生徒として受けてみるほうも体験しました。
実際にやってみたら、あっさり「そこまでしてリアルタイム・オンラインで自分のヨガクラスをやりたくはないな」と考えるようになり、音が届く通信環境の安定感が、わたしがやりたいスピード・内容だと足りないのだなということに気づきました。
最初にネットでの発信がベースにあってその後リアルの場へ出ていく経験をしてしまったわたしにとって、その双方向はなんだかむしろ双方向じゃないと感じてしまう。
瞑想やヨガニードラのガイド、ゆったりしたヨガ、ヨガの歴史や心理学の話など、同時スピードの重要性がないものはオンライン向きと言えそうですが、仕事以外の時間にこれ以上パソコンの前にいたくない。今年からそんな生活になりました。
そんなこんなで、よくよく自分の行動や継続の動機を深く掘り下げてみたら、わたしは教わりたい人にも教えたい人にも会いたいわけではなかった、ということに気がつきました。これはたいへん大きな発見でした。あとでもう少し詳しく書きます。
ならば、なぜ何年もオープンなヨガクラスをやっていたのか。これはもちろん、このブログでわたしを知ってくださった人と会いたかったからなのですが、もう少し掘り下げると、わたしは常に自分のなかに仮説を持って生きている人と会ってみたかったのでした。わたしにとって、何年も続いた理由はどうやらそこにあったようなのです。
off the mat の日常で抱えている課題への向き合いかた・スタンスのありかたを on the mat の場で言葉を使わずに確認する。外から見ていると、ああこの人も自分で仮説を立てて検証しているのだな…というふうに見える。そういう練習のしかたをしている人が自分のほかにもいることを感じることで、考えが前向きになりました。
わたしは on the mat, off the mat という表現がどうも説教くさく感じられて好きではなく(こういう英語の使い方を昭和生まれの日本語ネイティブがやるのは薄っぺらいと感じる)、これまでなるべく使わずに来たのですが、この「仮説」について説明するために、今日ばかりは便利な表現であることを認めないわけにいきません。
さっきわたしは、教わりたい人にも教えたい人にも会いたいわけではなかったようだと書きました。
これは経験から感じたことですが、ものすごく「教わりたい人」からは、ひとりで仮説を立てるプロセスを無視したい、そういう飛び級願望を感じることがありました。なにか自分の知らないすごいことがあるはず、あることにしてくれろ! と期待する意欲が強すぎると雑談も成り立ちません。大切なことほど雑談に混ぜたほうがいいことも多いなか、これではわたしがしんどい。
「教えたい人」というのは、これはヨガ・インストラクターの人という意味ではありません。教わりに来るのは体裁だけで、実のところ「わたしのすごさを見つけなさい」と言いたい、教えたい人。その願望を満たすには有名な人から目をかけてもらえる場が適切で、わたしのヨガクラスへ来るのはそもそもミスマッチ。
わたしがこれまで話者と聴講者の役割が明確に分かれた座学を積極的にやろうと思わなかった理由や、読書会という形式で共通の宿題提出ありきの形で活動方法をするようになった理由も同じで、仮説を立てることから逃げない、半分いやいやでもそれと向き合う気持ちがある人と時間を重ねる経験が増えたことで気がつきました。心のなかに仮説を抱いて練習に来てくれた多くの人たちがそのことに気づかせてくれました。
特に関西で耳にした「毎度のことながらポンコツやけど来たで」「毎回宿題がちょっと憂鬱なんだけど、読書会やし!と思って」などと言いながら来てくださった人たちの、あのそれぞれの小さなエクスキューズのフレーズがヒントになりました。
なにかを確認したい。それはわたしも同じです。そのなにかは、いまどんな感じでしょうか。そのなにかに向き合う気持ちは、どうやらとても大切なことらしいです。わたしの先生がそう言っていました。
(↓ 6月に書きました)
マットの上にいる時間を、自分のなかにある細かな仮説の検証に使う。できるだけ表面的な情報記憶を使わずに。頭の空白を埋めるためにとりあえずキープしているアイデアへの執着を棄てて、必要性の判断を無意識の領域に任せてみる。
練習と瞑想の後のあのスッキリの正体は、頭の中のスペースをすがすがしく感じられるように変化した感度の証左ではないか。近ごろわたしは「スッキリ」をそんなふうに捉えています。
自己のありさまを確認しながら、なんとか狂わずにいきたい。場の意義(=共通の願い)があったとするならば、たぶんそういうことだったのだろうなと、今年までの自分のをわたしはそんなふうに振り返っています。
ヨガの練習というのはたまたま、その媒介的アクションであった。わたしの場合はそれがたまたまヨガクラスであったと、どうやらそういうことみたいです。