映画『すばらしき世界』を観て原作が気になり、Kindle版があったのでさっそく買って読みました。
設定が映画では現代に置き換えられていましたが、主人公のモデルになった人物はわたしの親よりもほんの少しだけ上の世代の人。
日本赤軍が事件を起こしたのと同じ時代の、当時エリートではなかった人の視点から見た日本社会の様子はとてもナマナマしく、時代設定を変えたことで映画のシナリオから抜け落ちたエピソードと回想の中に、気になる社会意識がたくさんありました。
日本列島改造ブームの頃、キャバレー業界は好景気で、女性従業員とバーテンが夫婦だと経営者から信用されていたとか、なにこれちょっと意味がわからないんですけど!
映画で主人公の挙動の意図が読めず、わからなかったことに意味があった、そんな気づきもありました。
わたしはスーパーで主人公が半分サイズの野菜に戸惑う意味がわからなかったのですが、こんな記述がありました。
弁護士夫人に大根おろし器を貰ったが、刑務所では大根ばかり食べさせられた。クスリだと思うことにしても、近所の商店で野菜が買えない。葉ごと丸一本は大き過ぎ、キャベツ丸ごと一個、袋入り玉葱、束ねた長葱も独り者は持て余す量である。だからといって大の男が、大根やキャベツを半分に切ってラップしたのを買うのは憚られるのだ。
「痩せても枯れても、若頭補佐を務めた “神戸の喧嘩一” じゃ」
どうしても野菜が買えず、肩を怒らせて帰る。
この心理がさっぱりわからない。ここで屈辱感を感じる主人公の心がわからない。だけど、一冊読むと少しわかってくる。
原作の主人公は、映画以上に狡猾で見栄っ張り。悪いことは他人のせいにし、自分を励ましてくれそうな人には自分の不遇を盛って話して励ましを乞う。狡猾さを隠さないエピソードがいくつも出てきます。
映画の中ではここまで直球のセリフじゃなかったと記憶しているけれど、スーパーの主人(で町内会長)が主人公に向けて「問題をすり替えなさんな。あんたの生き方、考え方を改めるべきなんだよ」と言ってくれる場面があって、そのあともう一度問題をすり替えようとする。この繰り返しが、読んでいてしんどい。
こういうしんどい感じは映画の中でもとても印象深く再現されていて(ここは本当に、この映画のいいところ!)、協力したいのに話が通じない。
というか、そもそも通じていたらこんなことになっていない。でも協力しようとしてくれる人がそこにいる。だから『すばらしき世界』なんだなと。映画を観てから原作を読むと、どんどん感情が濃くなります。
少年院時代に性的虐待を受けていたこともさりげなく綴られていて、実際の主人公は映画で観た以上に壮絶でしんどい年齢の重ね方をされています。
巻末の「復刊にあたって」で西川監督は
私たちは今こうしてまで生にかじりつくだろうか。
と語っています。
生きても死んでも行く場所がないことには変わりがないけれど、生きていると関わってくれる人がいるから、生きてる。生きてた。ただその事実が淡々と綴られていました。
事実は小説よりも奇なりと思うようなヘンテコなエピソードがいくつもあって、映画では再現されなかったけれど、独身でインド旅行をしてきたという女性が元殺人者と知ったうえで主人公とお見合いをする場面がありました。
このお見合いの話は現代に置き換えた時に、行政のプライバシー管理でそんなやり方はありえないから映画のシナリオには入れられなかったみたい。エッセイ『スクリーンが待っている』にそのことが書かれていました。
元妻と連絡を取ろうとする主人公が、元妻の再婚後の姓と転居先地域を市役所であっさり聞き出すことができてしまう場面では、10年ほど前に起こった逗子ストーカー事件を思い出しました。2000年代になってもゆるいところはゆるかった。
時代の変化は速いようで遅い。人間の心の変化も速いようで遅い。
人間の濃ゆいところにどっぷりはまりました。