うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

キッチン(映画)

映画版の『キッチン』を観ました。1989年ですって!
物語がとてもゆっくりと進んで、原作ではモノローグやセリフに入っている要素がインテリアに反映されています。

植物がいっぱいの家がふたつ出てきて、花屋も出てきて、ほかの意味でも花がたくさん登場します。植物と音楽がすごく良くて、空気感をこう作ってくるか!と驚きました。

 

わたしは原作の再読よりも先に映画を観ました。

以下のセリフは原作の中にもあるもので、ああ。そう。これこれ。この感じが吉本ばなな世界という感じで、ジーンときました。

行くところがないということは、傷ついているときにはきついことよ

この主人公はほんとうに行くところがなかったのだけど、あまり深刻に感じさせない映像が続き、ゆったりしています。
舞台も東京ではなく北海道。繁華街と住宅地の場面の切り替えがわかりやすく、登場人物たちの仕事が負担なく察せられる。

 


映画版のまとめかたにひとつ、これはすばらしい!と思う展開があって、それはこのキラーフレーズが登場する場面です。

 

 

  押し殺しのコントロール

 

 

仕事も恋愛も、両方同時に親しみと独占欲のジレンマの中にいる主人公の複雑さを表すこのフレーズは、原作では以下のように書かれています。

 網戸越しの夕風、薄青く広がる暑い空の名残りを窓の外に見ながら、茹で豚や冷やし中華やすいかサラダを食べた。なにを作っても大げさに喜ぶ彼女と、黙って大食いする彼のために、私は作った。
 具のたくさん入ったオムレツや、美しい形の煮物、天ぷら、そういったものを作れるようになるまでにはかなりかかった。私のネックは性格のがさつさにあって、ちゃんとした料理にそのことがあれほどマイナスになるとは考えてもみなかったことだった。温度が上がり切るのをちょっと待てなかったりとか、水気が全部切れるより前に作ってしまったり、そんなささいな、と思うことが結果の色や形にきちんと反映して、びっくりした。それでは主婦の夕食にはなれても決してグラビアに写る料理になってはくれない。
 仕方なく私はなにもかもをていねいにやるよう心がけた。ボールをきちんとふき、調味料のふたをそのつど閉め、落ち着いて手順を考え、イライラして気が狂いそうな時は手を休めて深く呼吸をした。初めはあせりで絶望したけれど、ふいにすべてが直りはじめた時は、まるで自分の性格まで直っちゃったみたいよ! と思った。うそでしたけどね。

原作の語りもいいのだけど、映画ではうまくいった料理を「感情を押し殺した成功作」と言っていたのもおもしろくて。このあたりから、主人公の毒が出てくる。


原作を読んだ人にはびっくりするキャスティンだったらしい映画版・えり子さんは、彼女がどんな信念を持っている人なのか、原作の以下の手紙の部分を別の表現方法にしてああなったのだと思うと、なんだかジーンときました。

 ねえ雄一、世の中にはいろんな人がいるわね。私には理解しがたい、暗い泥の中で生きている人がいる。人の嫌悪するようなことをわざとして、人の気を引こうとする人、それが高じて自分を追いつめてしまうような、私にはそんな気持ちがわからない。いかに力強く苦しんでいても同情の余地はないわ。だって私、体を張って明るく生きてきたんだもん。私は美しいわ。私、輝いている。人を惹きつけてしまうのは、もし、それが私にとって本意でない人物でも、その税金のようなものだとあきらめているの。だから、私がもし殺されてもそれは事故よ。変な想像しないで。あなたの前にいた、私を信じて。

「あなたの前にいた、私を信じて」というのは、いろんな顔をもって生きている人には共感するところだけど、ひとつの顔で生きている人にはどうなんだろうか。

ここを読みながらふと、コンサートで歌っている最中にスーパーアイドルが襲撃された83年の事件を思い出しました。当時の "聖子ちゃん" は21歳で、その後「精神的にも、肉体的にも、元気になりましたので」としっかりした口調であっさりと明るい会見を開いていました。
まさに体を張って明るく生きていた。80年代って、こういう感じだったな、という時代の空気感を思い出しました。

そしてその後に、2021年の今の時代に世界規模で輝く大坂なおみさんによるメンタルヘルスへの警笛についても思い出し、時代ごとに更新されていく強さの定義について考えました。

 


この時代の感受性と今の時代の傷つきやすさはだいぶ違うけれど、どっちもその時代の複雑さを孕んでいる。
『キッチン』は、善悪よりも浄・不浄の境界に意識的になる生き方をファッション的に世間に示すプレゼン力がどうにもただ事じゃなくて、このセンス至上主義っぷりはいま観ると異様な強さを感じます。

悪意を持った清さだってあるのが人間でしょう。複雑にできているんですもの。とでも言いたげなこの不気味さを、当時すでに権威を持っていた大人たち(いま90代くらいかな)はどう受け取ったのだろう。


それはさておき映画は映画。あの声とその透明感で、こうきたか〜。とその世界観を楽しめるようになっています。川原亜矢子さんがティーンにとって「AYAKOちゃん」だった頃。印刷された雑誌の静止画の世界のあの人は、こんなふわっとした高い声なのぉ・・・と、まるでアニメの実写化のように思ったものです。

かわいいぞぉ〜。

 

▼映画の後に原作を読みました