うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

すばらしき世界(映画)

刑務所から出てきた人の物語でした。
主人公は、“正義” と “褒められたさ” が必ずセットになってしまう思考をする人。
その人の行動と心のはたらきを描きながら、その思考原理に甘えているかぎり娑婆は息苦しい。その現実が続く。
重い罪を犯した人は5年以内に刑務所へ戻る人が約半数という統計があると、映画の最後のほうでも語られている。その言葉を聞きながら『ケーキの切れない非行少年たち』を読んだときのことを思い出しました。

 

映画なのでかっこよくも見えるけれど、犯罪時の思考回路(正義のための殺人で、自分が悪いと思っていない)を残したまま生きていくことは大変なこと。

自分がこの世界で歓迎されていない気がする、その「気がする」を拭えない気持ちが強まるほど、正義を求めてしまう。その感じが、わたしにはすごくよくわかる。
ここを認めて自分の人生をラクにしていくためには思考のクセを解きほぐしていく必要があるけれど、それはとても大変な作業。

生まれてきたことを肯定できる人にとっての「希望」と、そこに疑いを持ってしまう人にとっての「希望」は、同じ文字列でも中身が全然ちがう。

この「希望」の違いは、島崎藤村の『破戒』を読んだときに感じたものとよく似ている。

 


短気を起こさずに信頼関係を築く経験を重ね、いかに記憶を上書きしていけるか。

わたしにはこの映画に登場する周囲の人たちが聖人に見えた。
正義のための攻撃が一瞬で発動する暴力的な人を見捨てないなんて、ものすごい胆力だと思う。暴力エピソードを武勇伝として語る人に「今日は虫の居所が悪いんだね」と対応するなんて、なかなかできることじゃない。


自分が救えるか自信を持てない状況でこっそり逃げ出す人に「上品ぶって。あんたみたいなのが一番何も救わないのよ」とハッパをかける救済効率主義よりも、「逃げてこそ、また次に挑める」という思考を繰り返していくことのほうが現実的。だけどそれは、はっきりしなくてカッコ悪い。

 

 

人は脳内で自分の生きやすいように物語を書き換えようとする。
「本当に大切なもの以外切り捨てていかないと自分の身を守れない」という弁護士の言葉は、それは誰もがときに小さくサイコパス的な判断をしながら生きるしかない社会の現実を示していて、自分の薄情さを同時に認めることを要求してくる。


正義という感情の代償を見る映画だった。