うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

何もかも憂鬱な夜に 中村文則 著

今年の夏は猛暑日が多く、夜中に何度も起きました。このパターンのなかで深夜にこの作家の小説を読むのがひとつの型のようになっており、立て続けに読んでいました。
どの作品も、これまでうっすら気にはしたけど深く掘り下げるとしんどいことになりそうな、そういう心の変化の過程が読みやすい文章で綴られています。完全に見ないふりをしたり避けようとするとある日突然課題として降ってくるような、そういう種類の題材が扱われています。読みながらいろいろな感情が引き出されます。

 

わたしはヨガを初めてからこの15年ほどの間に、たまに考えることがありました。
「ポジティブでいられる側」向けに訴求されるものに没頭するときは、なにかを麻痺させ見ないようにしている。そんな自分の中のアンビバレンスを観察し続けてきました。ヨガをはじめて数年後に霞ヶ関へ裁判の傍聴へ行くようになったのは「前向きさだけで押し切ろうとする考えが主流でもよいと思い込むと、人間としてどこかズレていくのではないか。落とし穴があるのではないか」という気持ちがあったのだと思います。この作家の小説を読んでいると、こういう静かな危機感のような気持ちがどこから湧いてくるのかを蒸し返される、そういう時間を過ごすことになります。

 

この物語に登場する佐久間という人物に対する主人公のひっかかりは、わたしも同じくひっかかりました。「ポジティブでいられる側」の世界が拡大していくときに犠牲にするなにかと似ていると感じました。佐久間という人物は素直に人を騙します。その思考は短絡的で、でも恐ろしいくらい現実でもある。自分を騙すか他人を騙すかの二元に陥る人間の雑さが佐久間という人物を通して示されている。
佐久間のような人物は「ポジティブで何がいけないの?」とあたりまえに口にできる人からは「ありえない」のひとことで一蹴されるかもしれません。でもわたしは彼のような人物をそんなに特異ではないと思いながら読みました。

2018年にアメリカのフロリダ州で起こった、ヨガ教室銃撃事件を知っている人はどのくらいいるでしょうか。わたしはそのとき、ヨガ教室がターゲットとして選ばれる理由に、なんとなく心の中で合点してしまう部分がありました。事件のニュースを聞いて「ひどい! 信じられない!」と即座に反応できればどんなに楽か。理解も納得もしたくないし認めたくないけれど、ターゲットにされる理由は想像できなくない。その心理に触れる描写がこの小説のなかで少し描かれていました。そう、いやなところをついてくるのです。この小説は。


そんな逡巡しまくりの読書のなかで、主人公の友人・真下という人物のノートの内容を読んだ時に「そう、これ。これなのよ!」と思う記述がありました。

 しかし包丁も、他人のつくったものだ。他人のつくったものに内面が具体化されるとは、たまらない。
 (9 真下のノート より)

 ここを読んだ時に、「それは刃物が導いた」というエッセイ(「悪徳もまた」に収録 宇野千代著)に書かれていたことを思い出しました。

作家の宇野千代さんが17歳の夏の日にたまたま街の金物店で包丁を買って、それを着物の帯に挟んだまま、もう来るなと言われた人の家に立ち寄ったときの回想をされている文章です。そこには意中の男性から「あなたは殺人未遂になるのですよ。明日の新聞に、あなたの名前が出るのですよ」と、疎ましげにストーカーのように扱われた経験が書かれているのですが、宇野千代さんは作家になってからそのような行為の印象を、「色ざんげ」という小説のなかで別の形で使っています。
わたしは先に「色ざんげ」を読んでいたので、「それは刃物が導いた」を読んだとき、そのルーツの分析と紐づけかたに驚き、本に付箋を貼っていました。そこには、このように書かれていました。

刃物があって、それに導かれて人が行動するものとしたら、ひょっとそんなことがあったとしたら、私がそれをしなかったと言えようか。あの毎日の新聞に見る非行少年の間違いも、これでなかったと言えようか。何かひょっとしたことで、自分の身辺に凶器を発見したとき、導かれ易い、年若な少年の精神が、その凶器に暗示されて、自分自身にも思いもかけなかった凶行に及ぶことがあるのも、この紙ひとえの危い境い目なのではあるまいか。
(「それは刃物が導いた」4 より)

 わたしはとことん深い内省を経て積極的な道を選ぶ宇野千代さんを尊敬しています。なかでも印象的なエピソードのひとつがこれで、なんとなく覚えていました。
この分析と全く同じようなことが、「何もかも憂鬱な夜に」では少年の視点で書かれていました。


17歳の少女であった宇野千代さんは、日々「あの人がこんなふうにわたしを掬い上げてくれたら…相手として認めてくれたら…」という妄想のなかで暮らしてきて、その日々の妄想と金物屋の包丁と血みどろのアクシデントの境界を、日常からの転がり先として淡々と見ている。「わたしに限ってまさか」とは考えない。

この宇野千代さんの誠実さと、小説「何もかも憂鬱な夜に」のなかにある「命は、使うものだ」というメッセージの奥底の意味が、わたしにはすごく似ているように見えました。

 

「あのときは若かったからわからなかった」で片付けない振り返りはとてもしんどい作業だけど、それをすることが自分のこれからの心の危機を回避する方法につながっていく、そういうことはあると思っています。なので、現実じゃ受け止められない物語を読むことでそのエッセンスを拾い出すことがあれば、それは教材のようなもの。

この小説は暗いといえば暗いけど、それだけじゃない。「救い」について腰を落ち着けて考えさせてくれる要素もあります。明るい視点から「救い」について考えさせてくれるものには、セミナーや合宿や交流会への勧誘がもれなくついてくる時代です。なのでわたしは小説派です。

 

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

何もかも憂鬱な夜に (集英社文庫)

  • 作者:中村 文則
  • 発売日: 2012/02/17
  • メディア: 文庫