うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

不織布と長母音

先日久しぶりに友人と話していたら、マスク警察の話になりました。
不織布でない布やウレタンのマスクをしている人が注意されるらしいのだけど、わたしは遭ったことがありません。そのほかにも、マスクのマナー講座として「職場で柄物のマスクは失礼」と説く人がテレビに登場していたとかで、現実? と疑ってしまうほど。
そんな話を聞きながら、ヨガをヨーガと長母音で書かない人を指摘する現象を思い出しました。


長母音記述の件は2008年に読んだ「ヨーガとサーンキヤの思想」中村元 著 で知りました。

わたしはたまたま最初にヨガを教わった先生がインド人の先生で、日本語とベンガル語を話す人でした。耳で入る音は「ヨガ」でした。そのあとインドでヨガを習った際も、ヒンディを話す先生の発音は「ヨーガ」ではなく「ヨガ」と聞こえる。
なので、練習からヨガに入っていく人は長母音の表記ではかえって混乱します。

このルールでいくと「ヨーガ」という単語に限らず、全「オ」あるいは全「エ」に棒をつけないといけない日本独自のカタカナ謎ルールが生まれる?  ネットで海外の人と直接話す人が増えていく時代に?  そんなわけないですよね。

 

さて。それはそれとして。
わたしは18年前にSEOの勉強のためにブログを書き始め、ヨガを題材にしたのは消去法だったのですが、SEOのためには多く検索される文字列を優先します。なのでずっと「ヨガ日記」です。(プロフィール欄にはこの点について、当時から同じ但し書きを残しています)
少し前に友人と話している時に、フロイドとフロイトもそういうのがあるよという話を聞いたのですが、ほかのジャンルでもこういう例はあるのでしょう。カタカナ自体が特殊というか、無茶ですもんね。
カタカナはわたしが生きているうちはもちろん残ると思うけど、日常の実用レベルではいつかなくなるかもしれないと思うことがあります。表現できる音が少なすぎるという扱いになる日が、いつかくるんじゃないかと。

 


それでも、いまはブログの文章のなかでヨーガと書くことがあります。
どういうときに長母音にするかを自分なりに分ける基準ができてから、そうしています。それにしても、長母音警察みたいなマインドの人ってヨガを楽しむ人の中にもいるのかな…。
本屋へ行くと本のタイトルが「ヨガ」と「ヨーガ」でに割れていて、なんとなく長母音警察を脳内校正者として内在化させている人がいるのかもしれない、と思います。こうなるともう呪いの域ね。
検索エンジンはとっくにヨーガをヨガとして(揺れ、other spelling として)認識してくれるけど、わたしがブログを始めた頃はまだそうでなかったと記憶しています。こんなネットの歴史すら、もう廃れた感がありますね。いまはハッシュタグで繋がり、音声でも検索する時代。ほんとうに驚くような変化です。

 


このたび不織布マスク警察という社会現象を聞いて、正しさは正義か、そこに慈しみはあるか、どんな自由意思か。そんなことを考えました。
無理矢理にでも役割を渇望する気持ちはどこからやってくるのか。わたしはマスクに限らず警察的注意活動をする人を見ると、この人も寂しさを抱えた仲間なのだろうとほんの少しだけ思います。「世直し」という発想は病みか闇か正義か全体幸福のためか。
わたしはマスク警察には遭ったことがありませんが、昨年にまだ殺伐としていた頃、電車の中で車内の窓を開けて回る人に遭遇したことがあります。座っている人は自分に覆いかぶさってくるような挙動に驚いていました。わたしも見ていて少しハッとしました。
その時、心の中で「あれは  Pay attention me !  てことかな…… ''よいこと'' の定義を利用しながら、やることが唐突すぎる」と思いました。

 

人々が自然にゆったり関われる社会のありがたみや豊かさを、わたしはこういう瞬間に再認識します。