先日読書会で、トルストイの『イワン・イリッチの死』の終盤にある “言い間違い” について話しました。
ここを訓示と捉えるかコメディと捉えるか。みなさんの視点を問いたくて。
目の前にいる人に大切なメッセージを残したい場面での、この言い間違いについて、こんなコメントをいただきました。
実際に発声して慣らしておかないと
これまで思ってもみなかったこと、ずっと思っていたわけではなかったことを、急に言えるものかね、と。
それを体力が衰えた状態でいきなり言おうと思ったところで、発音できるわけないじゃないか。そういう顔の筋肉の使い方をしてこなかったのだから。
普段から、ときに許しを乞う気持ちをもちながら関係性を重ねていれば、たとえ言い間違えたとしても、相手は理解しようとしたんじゃないだろうか。
だけど、それすらもどうでもよくなってしまいそうなくらい、死がすぐそこまで来てる気がする。
しかも、ここからの主人公の描き方がまたいじわる。トルストイは容赦ない。
だがもはや言い直す力もなく、分かるべき人は分かってくれると思って片手を振ってあきらめた。
この主人公に対して「やっぱり結局、自分に甘い」というツッコミもあって、たしかにそんな指摘もしたくなる。
そしてそれは、だけどそれは、外側から見た気持ち。
理想の死の条件に「潔さ」をあげる人は、まだ死を外側からしか見ていない。
“悔いがある前提で、できるだけ悔いのないように生きるには” という、ねっちりした心を見つめる舞台装置として、『イワン・イリッチの死』は、どうにもすごい本でした。
次回の読書会は久しぶりに、関西でリアルで開催しますよー!