うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

イワン・イリイチの死 トルストイ著/望月哲男 (翻訳)

この物語はヨーガ・スートラにもある5つの煩悩のひとつ “Abhinivesha” について、心の鎧のまといかたを、まるでマトリョーシカを開いていくように、とことん見せてくれます。ロシア文学だけに!

 

── なんてオヤジギャグ・モードにスイッチが入ってしまうほど、心が動く作品。

岩波文庫版の(イワン・イリッチの死)を読んでから、光文社文庫版を読みました。

 

 

 

でね。

あたくしここ数日、この本を読んでから心のモードが変わりまして。

先日、このブログに自分のこれまでの十数年のことを長々と書きました。一生は振り返っていないけれど、ヨガを始めてからのことを振り返りました。

ヨガとの付き合いの変化(毎日を終わらせるためのヨガ/できるを楽しむヨガ/性質に向き合うヨガ/体温を整えるヨガ) - うちこのヨガ日記

 

 

この振り返りのきっかけが、光文社文庫版の『イワン・イリイチの死』でした。

フツーの人生が恐ろしいくらいフツーにフツーであることに感銘を受けたのでした。

中年になってから初心に返っても返らなくてもフツーなのだとして、それでも初心に返ったほうがよさそうだと思う心のはたらきが、そういう確信のようなものが宗教や輪廻思想を生み出したんじゃないか。そんなことを思ったのです。

自分のこれまでを言語化するための、心の運動感覚が刺激されました。

 

 

準備運動のように先に岩波文庫米川正夫訳)を読み、これはヨーガの教典にある教えと紐づくぞと思って読書会の課題図書にして、別の訳でも読んでおく。

読書会の準備のためにいつもの手順を踏む、ただそれだけのはずだったのに・・・。

自分のフタを開ける気力が湧いてきて、急に自分のこれまでのことを書き始めました。こういう気持ちを刺激してくる本って、ありませんか。

 

 

ジェーン・スーさんの本で読んだ “子どものしっぽ” を見つけた

光文社文庫版の望月哲男さんの訳で語られるイワン・イリイチ45年の人生の振り返りは、そのなかに確実に存在している “子どものしっぽ” をよりリアルに見せてくれるものでした。

“子どものしっぽ”というのは、『これでもいいのだ』という本の『「大丈夫だよ」と言ってほしかった』というお話に登場するフレーズです。

 

この本にある、ジェーン・スーさんが自転車から転げ落ちたエピソードで、イワンと同じような心情が綴られていました。

イワン・イリイチの場合は死にかけているので、コトは大いに深刻です。なんだけど、元をたどるとそれは、自転車から転げ落ちたのと同じようなきっかけです。(梯子から落っこちた)

 

 

そんなイワンの頭のなかで展開される無茶なつじつま合わせが、そして、合わせようにも無茶すぎる現実が、望月哲男さんの訳で読むと沁みる。

特に第7章の、ここが!

 さて例の嘘のほかに、あるいは嘘のせいで、イワン・イリイチにとって一番つらかったのは、彼が願っているほど彼に同情してくれる人が、ひとりもいないことだった。

 たとえば痛みが長く続いた後など、彼が何よりも願うのは ── 打ち明けるのはいかにも恥ずかしいのだが ── ちょうど病気の子供を哀れむように、誰かに哀れんでもらうことだった。子供をあやして慰めるように、優しく撫でて、口づけして、哀れみの涙を流してほしかったのだ。もちろんれっきとした公職にいて、ひげも白くなろうという身の彼には、そんなことは望むべくもないのはわかっていた。だがそれでもそうしてほしかったのだ。

わーん! イワーン!

心の中はこんなことなっているのに、こんな状況。

孤独でも孤独じゃなくても、乗り越えなければいけない痛みなの? 大人ってしんどい。

 

 

同じ部分の米川正夫さんの訳は以下のようにちょっと硬いのですが、これはこれで、社会のなかで鎧を脱げなくなった中年の自己防衛が・・・。

 この偽りのほかに、あるいはこの偽りの結果、イワン・イリッチの身になると、なによりもまた苦しいのは、誰ひとりとして彼自身の望んでいるような、同情の現わし方をしてくれないことであった。イワン・イリッチは長いあいだ苦痛を経験したため、時とすると、ある一つの願いがなによりも強くなることがあった。それは自分自身に白状するのもきまり悪いほどであるが ── 彼は、病気の子供でも憐れむようなぐあいに、誰かから憐れんでもらいたいのであった。子供をあやしたり慰めたりするように、撫でたり、接吻したり、泣いたりしてもらいたい。彼は自分が偉い官吏で、もう髯も白くなりかかっているのだから、そんなことはできない相談だと承知しながらも、やはり、そうしてもらいたかったのである。

「自分自身に白状するのもきまり悪いほど」というところが、わたしには重く響きます。

 

こうやって読み比べてみると、ドリカムと阿久悠の対比のようなそれぞれのエモさがあって、そこに織り込まれた感情のしつこさの毛色にちょっとだけ時代性を感じたりして。

同じ物語を時代の違う二つの日本語訳で読んでみると、どうにも沁みる。

 

 

健康とアンガー・マネジメント

この作品は、まだまだ元気なはずの人が中年期にうっかり死ぬ話です。身体だけがものすごい勢いで衰えていって、頭のなかでは妄想を培養したり悪あがきできちゃう、虚栄心の体力はピーク。

こんな状況では、エビデンスのある健康論なんてなんの力も持たない。この心理描写がまた、静かな実況っぷりがじわじわきます。

 

以下は第4章にある、健康とアンガー・マネジメントに関する心理描写の部分です。

 状況や人間に対して腹を立てるのが自分の病気を悪くするのであり、不愉快な偶然など無視すべきだということは、彼にも当然わかりそうなものである。だが、彼はまったく逆のほうから考えていたのだ。彼によれば、自分には平穏が必要であるから、その平穏を乱すようなものをすべて厳しく監視する。だからほんの少しでも平穏が乱されるたびに、苛々してしまうのだった。

(望月哲男訳)

これはスマートに訳しすぎ、いいこぶりっ子すぎる! と、ちょっと突っ込みたくなる文章です。

この状態の人に「心理的安全性」なんていう格好の鎧ワードを与えたら、職場は穏やかな地雷だらけの地獄になるって、わたし、知ってるんだから。

・・・って、なんの話をしてたんでしたっけ。

ちょうど先日ヨガのあとに職場で感じるモヤモヤについてお話をしてくださったかたがいて、思い出しちゃった。

そんな話はさておき。

 

 

この部分の米川正夫さんの訳は、もっとゴツゴツしています。

こうした四囲(あたり)の状況や人間に対する癇癪が彼の病気を募らせているのだから、そのような不愉快な偶然には注意しないようにすべきである。それは彼自身にもはっきりわかっていそうなはずでありながら、彼はまるで正反対の理屈をつけた。彼に言わせると、自分には安静が必要なので、この安静を乱すいっさいのものを厳禁しているから、たとえわずかでも安静を乱されると、たちまちいらいらした気持になってしまうのである。

米川正夫訳)

わたしはこの訳の、”癇癪” と “理屈をつけた” のセットが懐かしくて。かつて使われていたノイローゼという言葉がしっくりきたのと似た感覚。

「無視すべき」と「注意しないようにすべき」では、後者のほうが上品に感じるのだけど、スルー・スキルなんて言葉がある現代では、前者のほうが、これからの時代はしっくりくるのでしょう。

 

 

第4章のここは、”分別がわかりそうなものであるが、わからなくなっているイワンの心の過程” を描いているので、訳のニュアンスも揺れてくる。いま自分は精神がだいぶやられてるな……、持ち直せるかな……、と揺れています。この感じが、この本の読みどころ。

狂わないためのブレーキって、ベタ踏みできるもんじゃないって教えてくれる。

 

それにしても。

魂が “清らかマッチョ” な状態に陥らないように最後まで引っ張っておいて、ああいうエンディングが書けるというのは、すごいことだなと思います。