先日読んだ『N/A』という小説のなかで、ひとつ強く印象に残るエピソードがありました。
この小説です。
このお話の中に、ある女子高校生が祖父のコロナ感染を心配し悲しんでいる場面があります。
同級生たちは彼女にどうメッセージを返せばいいのか逡巡し、結局「既読」だけつけるという選択をするのですが、そのあとに当事者のほんとうの苦しみがブワっと出てくる。そういう場面がありました。
祖父が亡くなると資金面での支援が期待できなくなり、進学の夢が絶たれるかもしれない。祖父の命よりも自分のことばかり考えているこの状況がつらいと。
自分のことばかり考えていると思われる
これだ、と思いました。
先日、『イワン・イリッチの死』を題材に読書会をしたときに、参加者のかたが、わたしも含めたその場の全員に向けて、こんな問いかけをしてくれた一幕がありました。
この中に、弱音を吐ける人って、います?
と。
自分は弱音を吐けるか。重要な問いだと思いました。
なんで重要なのかを、そのときからずっと考えていたので、この『N/A』という小説で弱音のあとに本音を爆発させた女の子のメッセージの文字列が刺さりました。
祖父が死んでしまったら進学できなくなる。味方がいなくなる。母は祖父に大学進学をさせてもらえなくてそれを恨んでいるから、自分が大学へ行かせてもらえることを本当はよく思っていないはず・・・、と想像しています。想像して苦しんでいます。
確証はないけれど、いまはそうとしか思えなくて、
いま苦しい
こういう苦しみは、「なんとなくそんな気がする」としか言えないから妄想のカテゴリに入れられてしまうのだけど、本人なりにそういう類推をする根拠となる記憶を持っていて、その根拠まで疑うことは誰にもできません。
寄り添うというのは、その人の頭の中にある根拠を疑わないスタンスを示すということ。だからむずかしい。
この小説では「既読だけつける」とか、スマホを使ったコミュニケーションで起こる細かい機微が書かれていて、おお、と思うところがいくつもありました。