うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

偽善者である自分を許せなくなると、心の居場所がなくなる

先月のことです。

自分を偽善者と感じる自我について、ヨガの練習者のかた数名とお話しする機会がありました。

同じ本を読んで集まったら同じ場所に付箋を貼っていたので、「やはりこれは重要なところですね」と確認しあう時間になりました。

 

 

 

自分を偽善者と感じるとき、そこにあるのは ”架空の他者が自分へ向ける視点” です。

頭の中に他者を内在させています。

自分との向き合い方として、これは得策じゃないようです。

世の中には「傾聴」に関するノウハウが溢れているけれど

多くの人は自分対自分で、自分内対話をします。

 

 

 

 「無害な人と思われたくて他人にそう言ったんだ」

 「うんうん。あるある」

 「だけど、実際はその気持ちは嘘なんだよね」

 「そうなんだ」

 「こんなふうに嘘なんだ」

 「なるほどね」

 

 

 

ここから正直な気持ちに近づいていく。

傾聴の本で説かれているのは、こういうことみたい。

 

だけど、本当にこんなふうにうまくいくでしょうか?

陳腐な感覚に呑まれずに、すんなり進める?

この ”陳腐な感覚に呑まれる感覚”  は、

相手がいてもいなくても起こっていないでしょうか。

 

 

 

以下のようにはじまることはありませんか。

 

 

 

「無害な人と思われたくて他人にそう言ったんだ」

「無害な人? あなたが?」

「あ、いや、無害っていうか、その・・・」

「あのとき、人に迷惑かけたよね。痛い人だったよね」

「・・・・・・・」

「どの口が言う?」

 

 

 

自分の中で自分を詰める。

苦しい。責めるどころじゃなく、詰めてる。

これはひとりの頭の中で起こることですが、これが癖になってしまうと、自分が関われると思える世界が狭くなります。

外へ出て行こうとするときに、自分の心の蓋をあけるために「自分の心を封じた敵」を設定しなければいけなくなることもあります。

 

 

 

わたしはいろんな人を、これまでこんな目線で見てきました。

エクストリームな新興宗教やアグレッシブすぎるスピリチュアルにハマる人を見ると、「ああこの人は普段、自分を詰めてるんだな」と。

 

 

苦しい取調室の中にいるから、

つい

 

 

  カツ丼食うか

 

 

にほだされてしまうのだと。

蓋を開けてくれる人にコロッといくのは、こういうことじゃないかと。

 

 

無害な人? あなたが?

この問いの構造は「偽善者」のほかにもパターンがあります。

「場を盛り上げたくて道化になる」というバージョンもあって、これを外部から指摘するのが、太宰治の『人間失格』に登場するクラスメイトの竹一君です。

わざと道化を演じている人に、「ワザ。ワザ」と、わざわざ言うあの意地悪なセリフ。

 

 

小説家・太宰治が自分で自分に指摘をしています。

「面白い人? あなたが?」という強烈な自己批判を自分自身へ向けています。

これをやると、自分の頭の中に自分の居場所がなくなってしまいます。

 

 

人間失格』の中では、偽善にも道化にも共通すると思う要素が「サーヴィス」と言う文字列で書かれていました。

サービス精神のあるサービスと、サービス精神のないサービス。

この境界を指摘されたことで、主人公が「わあっ! と叫んで発狂しそうな気配」を経験します。

 

 

偽善者の自分が視界にチラチラするのが気に食わない?

わたしが読んでいるヨガの本に、こんな教えがあります。

ヨーガ・スートラの解説本です。

ヨーガ・スートラの教えに触れること、それに対するスタンスが語られる部分に、こう書いてありました。

 

 You would be hypocrite if you accepted it as it true,

     you would be a fool if you rejected it as it untrue.

 

 それを真実として受け入れたらあなたは偽善者となり

 真実ではないと拒否すれば愚か者になるでしょう。

 

ヨガを学びはじめて自身のサットヴァぶりっ子っぷりの扱いに躊躇するなんてことは、当たり前のステップだよと。

出典はこの本で、スワミ・ヴェンカテーシャーナンダという人の言葉です。

The Yoga Sutra of Patanjali

The Yoga Sutra of Patanjali

Amazon

 

 

ヨガは大人向けのもの

ヨガは大人向けのものです。

そこにある「正直(satya)」の教えは、昭和のドラマで子役が演じたような「素直な子供」のあの感じを身につけろと言っているのではない。

ないんです。

 

 

 

「わーい! 今日はカレーライスだ! わーいわーい!」

 

 

 

と、昭和の子役のようにわたしもよく口にしています。

ですが、その「わーい!」のひとつひとつの内実は、すっかり大人のものです。

酸いも甘いも苦いも辛いも、コクもハーモニーも、拮抗とコントラストから生まれる異色の味わいも、いろいろ食して感じてきた上での、

 

 

「わーい! 今日はカレーライスだ! わーいわーい!」

 

 

です。

 

 

なんでライスなんだ、ナンやチャパティではないのかと言われたら

わたしはバスマティライスを希望するからです。

血糖値スパイクを気にするからです。

バスマティライスのGI値は日本米の約半分なのだそうです。

実際何度も食べて、そう感じています。怠くなりません。

昭和の子供は血糖値スパイクを理解しません。

わたしは令和の中年です。生きてきた経験があります。

 

 

「わーい! 今日はカレーライスだ! わーいわーい!」

 

 

にもグラデーションがあります。

脱線してますね。

戻します。

 

 

 

自分を偽善者と感じる自我

冒頭に書いた「自分を偽善者と感じる自我」について考えたきっかけは、ある人物の物語でした。その人はたいへん苦しんで、最後に手記を残しました。

その人は自分自身の中にある暴力性と正直さの間で苦しんでいました。

ヨーガ・スートラで説かれている8肢則(8段階)の「禁戒(ヤマ:Yama)」の最初の二つに絡め取られた形で苦しんだその先を見せてくれました。

 

フィクションでなら、それが実現可能です。

 

ヨガとは真逆のアプローチで自己を浄化しようとした人の物語を読むことで、ヨガのスタンスの核心に触れることになりました。

ジーキル博士とハイド氏」は、セラピーの書です。

英国紙ガーディアンが選ぶ必読小説1000冊に入っています。

このリストはなかなかです。おすすめよ。