昨年アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』の読書会を行いました。この物語は家族の物語で、主人公は妻であり母。
読書会のなかで、主人公の家族側の視点で話す時間がありました。
おひとりは、家族のなかに話が通じないと思う人がいて、この主人公の思考を見ることが参考になったと話されていました。
別のかたは、話が通じない状態の人に対する家族の "事なかれ主義" について指摘されていました。
また別のかたは、自分の夫や子供から見たら自分がこの主人公と同じように見えているだろうと恐ろしく感じたそうです。
コミュニケーションがむずかしいと感じる関係性にひとりで向き合うのって、しんどいですよね。こういうことも、共通の読書体験を経るとそれがクッション材になります。
小説の世界では、そんな家族関係のなかに思わぬ機会が訪れます。
状況が生み出した契機です。
マインドだけが忙しい状態の人
主人公は三人の子供をもつ母親で、食事作りも掃除も子供の世話も、召使いの人やナニーさんがやっています。(イギリスのお話なので)
のちのち大きくなった子供から「お母さんは、指示を出していただけだよね」と指摘されます。
先ほど、この物語には思わぬ機会が訪れると書きました。
指示を出しているだけだった主人公が、強制的に瞑想をさせられてしまいます。
ここはヨガブログなので、ヨガに寄せた視点でこの本を紹介しています。
これを書きながら、今日のこのエントリーのタイトルを考えながら、ふと日常で思いあたることがありました。マインドだけが忙しい状態の人が、まるで社会的にも忙しいかのように振る舞うとき、威勢のいいことを言っています。
この小説にも、主人公とかつてのクラスメイトとの会話にそんな場面がありました。
アガサ・クリスティーの人が殺されないシリーズ(この小説もそのなかのひとつ)は、40代以降の女性のモノローグが多く、人生の後半になるとそれまで誤魔化してきた心の態度が効いてくるのよと、釘を刺されたような気持ちになります。
なかなかきびしいのだけど、読んでよかったと思う作品ばかりです。