うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

いや〜な夢を見たときは、朝の瞑想のチャンス

今年の春から毎朝『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を読んで瞑想をしています。
顔を洗って歯を磨いて植物への水やりをし(洗濯をする日は洗濯機のスイッチをオン)、クイックル・ワイパーをしたらいつもの場所に座って本を読み、その内容を瞑想します。そのあと、もっさり立ち上がって太陽礼拝です。


━━ というのを毎朝やっていたら、夢との関わり方が変わってきました。

 

わたしは20代後半で仕事が忙しくなって以来、ここ数年でやっと6時間以上寝られるようになったくらい、途中で少し動いて休憩しないと長く寝られない体質です。首や腰が詰まったような感じになります。骨の弾力の問題かしら。

自分では日光に当たる量が減ったからと推測しているのですが、10代までは毎日死んだように何時間も寝られていました。

いまは平常時は5時間か5時間半くらいで目が醒めることが多く、ぼやっと歩いたり伸びをしたりして、日によって二度寝をします。


二度寝をしない状態で見た夢を覚えているのは年に数回で、夢を見るときはだいたい二度寝から。これは覚醒時には絶対に出てこないアイデア! と思うようなすばらしい映像は、二度寝の時には見ることができません。
二度寝の時は戒めや警告のように感じる夢が多く、自分がなにか失敗したり、焦ったり、みじめな思いをしています。楽しい夢であっても、それも現実ではやらかしでしょうという内容の夢です。

 


この、やらかしの夢に対する向き合い方が、ここしばらくで変わってきました。
『ヨーガ・ヴァーシシュタ』を読んで瞑想をする時と同じように捉えるのが癖づいてきました。
「その内容」を瞑想するのです。ガッカリしたりイライラするのではなく、瞑想する。主人公を自分と切り離してみます。
そうすると、自分はこういうことをする人間ではありたくないのだ、これを食い止めることができることが、自分の目指す人間像なのだという面が見えてきます。

 


『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は聖者ヴァシシュタがラーマに説法をし、その内容に近づくための伝説や逸話を話すもの。その本を毎日読んでいたら、自分の見た夢をその「逸話」のように捉える癖が発動するようになりました。


以来、いや〜な夢を見た朝は「今日は自分専用の逸話がある」という感覚になり、そのような日は二度瞑想をします。初回は自分の夢の内容で、その後はいつものように。あとで『ヨーガ・ヴァーシシュタ』が控えているので、いやな夢にも以前より楽観的に向き合えるようになりました。
自分はこの種の失敗をおそれているとか、こういう角度から泥を塗られると怒りの感情が湧く、というのがよくわかります。そのように見ていくと、自分で自分を嫌いにならないために守りたいと思っている ”誇りの性質” が見えてくる。
この ”誇りの性質” を仮に、「A」と言うことにします。


世間体を保つためにする判断と「A」は、共存できることがほとんどです。なので、「A」は実はすごく言語化しずらい。
口にした瞬間に、そんなの大人として当たり前じゃん、というようなことだからです。
その、口にした瞬間に当たり前と思うようなことを守ろうとすることが、実は自分の精神を支えているということに、いやな夢との関係性から気づくようになりました。

<これは色としては淡い、あぶり出しのように注意しないと読めない自尊要件なのですが、ユングはこれを潜在意識と言ったのかしら?>

 

さて。

今回のようなわたしの例では、いやな夢に向き合えた背景に、その後ろで自分の間違いをカバーしてくれる存在(ヨーガ・ヴァーシシュタ)を感じられた、というのがあります。
野球に喩えると、自分がファーストを守っているときに、ライトにイチロー選手がいてくれているような感じです。サードを守っている時に、ショートに井端選手がいてくれているような感じと言ったらわかりますか。例が偏りましたでしょうか。

 

 

いずれにしても。
これまでこの聖典を「自己を導いてくれるもの」と思って読んできましたが、半分くらいまで読んだ今の段階で感じるのは、「カバー体制」や「バックアップ効果」もあるということ。これは想定していなかったので、ものすごくありがたいです。

 


イチロー選手や井端選手のような存在感で『ヨーガ・ヴァーシシュタ』が部屋にある。それによって、失敗の恐れに目を向けられるようになってきました。
わたしはこれまでによく「とにかく間に合わない!」という夢を見てきましたが、それは「納期を守る、信頼される人物でありたい」「不運やアクシデントで予定が狂った時も、自暴自棄にならずに対処したい」という気持ちの投影じゃないか。そんなふうに考えるようになりました。
そしてその願いを叶えるには、自分でその行動をするしかない。願いというと、ついつい大きなものを想起しがちですが、あたりまえのことができる状態を願っている。そういう気持ちに気がつきました。


それまでは、いや〜な夢に対して、自分は漠然と何かに焦っているのかなとか、不安の投影だと思っていました。いまは、それは悲観的な解釈に見えます。
ヨーガ・スートラ第2章33節で説かれていることは、もしかしたらこういうことではないか。
そんなふうに思うようになっています。
(ヨーガ・スートラが家にある人は、ぜひ開いて、わたしと一緒に考えてみてください)

 


▼夢について、数年前はこんなふうに捉えていました