うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

新生 島崎藤村 著

島崎藤村の「破戒」を読んで以後、とても考えることが多くなりました。それだけ価値のある読書をしたと感じる小説でした。そしてあまり深く考えずに、これも有名な本ぽいぞと思って「新生」を読みました。これは別の意味で強烈でした。
二冊読んでみて、まだ二冊しか読んでいないけれど、この作家の圧倒的なうまさをびしびし感じました。自分の知っている領域に例えるなら、この人はヨガに限らずストレッチもピラティスも筋膜リリースもエアロビもズンバも、あらゆる挙動を巧みにリードするセンスを持っている。そういうのと似た、安定したリードのうまさ。ゆえに、最後まで読まされてしまう。
安定した能力というのは白魔術にも黒魔術にも使えてしまうもので、「破戒」が白魔術であったなら「新生」は完全な黒魔術でした。
タイトルの「新生」は、現代的なフレーズで言うならこんなタイトルがよいと思います。勝手に提案します。

 

 

  島崎藤村 衝撃の告白本「それでも僕は、許されたい」

 

 

当時まだ20代であったジャーナリストの女性を強姦した報道記者の自己弁護の思考は、「新生」の主人公のようになっているのではないか、そんなふうに読むことができる。この本は性暴行加害者の心理を学ぶテキストとして最高レベルのものじゃないだろうか。
同じように思い浮かぶ例はほかにもあり、身近なジャンルで例をあげれば世界的ヨガチェーンの創始者によるセクハラ事案、直近の日本社会でいえば4月に起こった有名アパレル会社社長の辞任。ああいう、ある種の「力だめし」行為の心理を紐解く記録として、「新生」は読みごたえがあります。

 


  世間一般では許されないことを

  自分が中心となる組織の中でためしてみる行為

 


頭のいい人がどうやってこの行為を「アリなもの」にしていくか。そのプロセスを知ることができます。強姦という行為を試みる側の人間を完全には憎めなくなる。そんな読み方をさせる。その技術を自認していなければ「新生」なんていうタイトルは強気すぎる。

いろいろな意味で、こんな恐ろしい時代がそんなに昔ではないことに驚きます。この小説で節子のモデルになった島崎こま子さんが亡くなったのは1978年。叔父の島崎藤村に性愛の対象にされ始めたのが19歳か20歳なので、まあそのくらいまで生きていても普通かと、あまり昔ではないことに驚きます。

 

 

女性の人権が当時よりも尊重されるようになったいまの時代にこのタイトルで出版するのはまず無理だし、それ以前にそもそも出版できないだろうし、文豪といわれた人の作品でありながらもう刷られることはないし、もしかしたらこれは日本の黒歴史として封印されるのでは? と思うほどの内容です。
40代の著者がまだ19歳か20歳の自分の兄の次女(実の姪)を妊娠させ、そこからストックホルム症候群(←当時この心理学用語はない)となった姪の心の状態に便乗して6年間も性愛の相手として利用し続ける。そのなかに、かなり恐ろしいモノローグがいくつも含まれています。

 

なのにこれがまた、どうにもうまい。読ませる。なんか汚くないと思わせる。読まされるのだから恐ろしい。これぞ文章の黒魔術。主人公の思考にふわっと乗せられて、いやいやいやいやちょっとまて。となることが何度もありました。
なかでも下巻「百二十三」の冒頭のうまさは異常です。

 庭先にふりそそぐ雨の音を聴きながら、岸本は更に思いつづけた。沈まって行った情熱を静かなところで想い起して見ると、実にいろいろなことがその中から出て来た。
 二階がある。窓がある。障子がある。障子の外は直ぐ物干場につづいて、近くの町の屋根も見える。遠く小高い崖の地勢に立つ雑木林の一部も見える。郊外らしい空もそこから望まれる。その窓際に身をよせて、譬えようのない不安に沈んだ人のようにしょんぼり窓の外を眺めている女がある。この二階が以前の高輪の家の近くに岸本の仮の書斎としてあったところだ。この女が節子だ。
 その時ほど岸本は自分の弱いことを感じたことは無かったことを思い出した。何故というに、三年の旅の修業が実際何の役に立つかと自分ながら疑われて来たのも、その時であったから。節子が二度母にならないとも限らないような心配らしい口吻を泄らしたのも、その時であったから。人の経験というものの力なさがその時ほど彼を嘆息させたことも無かった。

島崎藤村の文章は、読んでいるとそのリズムと美しさから、まるで自分が知的で上品な人間であるかのように錯覚してしまう。読者はその錯覚を肯定したくて、これは書き手がよい人間だからだろう…というふうに脳内で理論づける。その仕組みが読者自身の中で勝手に育っていく。そうなるように種を蒔いては散水してくる。読者の思考の畑に「これは複雑な恋心なのだ」という理解が育っていく。島崎藤村の文章の誘導は巧妙です。
でもよくよく内容を読み解けば、姪の節子が「こんなことをしていたらまた妊娠するかもしれない、心配だ」と言っていたことがわかり、避妊せずに相変わらず性交渉を続けていることを「力なさ」と言って弁解している。後篇は初回の妊娠のときよりもタチが悪いのです。
「二度母にならないとも限らないような心配らしい口吻を泄らした」と、ここで他人事のような語りをするまえの段落の末尾の時点で、「この女が節子だ」と視点を巧妙に俯瞰の位置に移している。こういう細かい逃げのテクニックが各所に仕込まれている。


この「新生」は姪と性交渉を持ち続けた中年男の話であり、名家の兄弟の中でも自分の筆の力で有名になり親族から頼られるようになった文豪の家族の話でもある。感情的な気持ち悪さをいったん横に置いて解釈すると、新しい時代に適応する成功者となった著者が、一族の中での力関係を歪んだやり方で確認しようとした物語にも見える。兄からいやらしく金の無心をされている様子や、病院の手配の世話などちょっとしたところで自身の社会的評価の高さや権力をほのめかしています。


一家の中で尊敬する叔父によって意思を持つ女にしてもらったと思い込むことで生きようとした姪・島崎こま子が、家庭内でまったく尊重されない様子はあまりにも苦しく、彼女の扱いの描写にはキム・ジヨン100人分くらいのインパクトがあります。
この小説は島崎藤村による「家」への復讐の記録ではないかと思うほど、親族の考えかたにも相当な恐ろしい。2020年に読むと、当時とは違う意味で答え合わせができます。セクハラやDVがなぜ無くならないのかがよくわかる。

 

この小説は文学としてではなく、もっと別の意味で掘り下げる価値があるのではないか。合意があった・なかったと揉める前に、行為を正当化する物語をこしらえる。そんな芸当ができる人は、後にも先にもこの人しかいないように思います。

新生

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