昨年からカビールの詩を写経しています。電子書籍で買った日本語訳の詩をノートに書き写しながら読んでいます。PDFをそのまま電子化したようなつくりでハイライト機能を使えないので、ならば!と紙に書き写すことにしました。
この詩は平凡社から出ている「宗教詩ビージャク インド中世思想の精髄」という本に収録されていて、「ラマイニー」「サバド」「サーキー」の3つの型の詩集が収められています。
ラマイニーはラーマーヤナという言葉から派生した物語性をもった詩篇で、リズムは16拍+16拍×2行だそうで、これをチャウパーイー詩型というそうです。(拍数がギーターの倍になる感じかな)
インドの詩型は日本の短歌や俳句よりもたくさんあって、韻の踏みかたもちょっと執拗。ハタ・ヨーガの教典にもそういうものがたまにあって、原文で読むと「この人ダジャレ大好きおじさんみたい…」と思うことがあります。(相手は聖者なんですけどね)
そんなこんなで、この本ははじめから日本語で読んでいますが、韻への妄想もはたらかせながら書き写しています。
さて。
この詩を歌ったカビールは1398年~1448年頃にバラナシで機織職人をしていた人で、ヒンディー文学の祖として知られている人だそうです。わたしはどこで知ったのか忘れてしまったのですが、タゴールに関する本で知ったのではないかと思います。
カビールはハタ・ヨーガに関する書物が残された時代の少し後代の人なので、詩の中にわたしにとってのスター(ゴーラク・ナートやヴィヤーサ等)が何度も登場します。
詩はかなりユニークで、意表をつかれるものや、過熱するヨーガ修行者をディスるものもあります。(詩なので、disでよいかと。だめ?)
いろいろドキドキさせるような詩のオンパレードなのですが、7つの節とひとつの最終要約詩(サーキー)で構成される17番の出だしの一節は、冒頭から掴まれます。
自分にこのようなほかの個我が得られればよいのに。
多くの善徳があり喜びが心にあるような。
こんなふうに、信じることと葛藤の中間にあるような言語化できない矛盾をどんどん言葉にしています。
カビールはヒンドゥーとイスラームの形式主義やカースト・男尊女卑・人種差別を指摘する詩も多く残していて、以下の62番はまるまる、こんなこと指摘してた人いたんだ…と思う内容です。
もし創造者がヴァルナを考えたならば、
(人は)生まれながらにして (額にシヴァ派の印象である)三本線をなぜつけてこないのか。
(人はみな)シュードラに生まれてなおシュードラとなる。
見せかけの聖紐を着けてこの世の業をなす。
もし、おまえがブラーフマンでブラーフマンの女から生まれたのならば、
(不浄でない)他の道を通ってなぜ生まれてこなかったのだ。
もし、おまえがトゥルク(イスラーム教徒)でトゥルクの女から生まれたのならば、
(胎の)中で割礼をなぜしてもらわなかったのだ。
黒色と茶色の牝牛の乳を搾り出し(混ぜて)、それぞれの乳を分けてみよ。
人間よ、見せかけや狡猾さを捨てよ。
カビールは言う、賎しき者は誰もいない、賎しいのは口にラームがいない者。
ヴァルナというのはカーストよりも一段細かい職種単位での人種を示すものです。
混ぜるとか溶けあうとか、材料はギーであったり水やミルクであったり、ゴーラク・ナートが残したと言われる表現にもそういうものを目にするのですが、この流れからの、黒色と茶色の牝牛の乳という表現がすごくいい!
聖紐については以前こちらに書きました。
71番の詩には、苦行自慢をするヨーギーへの言及があります。
最後のサーキーというのは、詩によってあったりなかったりする、最後のまとめのような詩節です。
悲しみと喜びを等しく思う者の、話はインドラ神すら分からなかった。
(彼らは)結髪を切り(それで作った)首輪をつけ、困難なヨーガ行を自慢する。
坐して飛び上がり何が偉いのだ、鳥と鳶が飛び回っているのと同じだ。
女は土壁のようだ、王座は荒地だと(彼らは)みな思っている。
(芳香を放つ)白檀は(臭い)奈落のようだと思い、賢者は風狂者のようである。
(甘い)小麦粥と(苦い)丁子を同じものと見なし、粗糖を捨てて口に灰を放り込む。
<サーキー>
このような考え方をしているうちに、(彼らの)分別力と意識はなくなった。
二つが混ざって一つになっている、どれを大事にしたらよいか。
この詩の中盤はわたしがまだ10代の頃にオウム真理教の修行者の激しい見た目や行為にぎょっとした時に言語化できなかった気持ちのようであり、その雄弁さを見て頭がいいのはわかるのだけど…となんとも言えぬ思いを抱いた感覚と重なります。
神話に登場する有名キャラクターや暗喩の解説から学ぶことも多く、もともとインドの神話や物語の好きな人は、わたし以上にもっと楽しめるんじゃないかと思います。
カビールは文字は書かなかったそうですが、詩の中にいろんな物語や聖典の節が盛り込まれていて、六派哲学の教典に出てくる内容も多くあり、かなり脳内データベースの広い人という印象を受けました。
いまは「サバド」という形式の詩を写経しながら読んでいます。写経は出かける前に中途半端にある7分とか、お風呂がわくまでの12分など、新しいことに手を付けてはいけない日常の待ち時間にやっています。
1セットがちょうど10分くらいでできるので、ちょうどよい隙間練習になっています。
カビールの生きた時代は15世紀。カビールの詩には信仰を通した思い上がりに内省を促す辛口の詩が多く、思考を現実的な方向へそっと引き戻してくれる、そういう示唆の力を感じます。