うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

しがみつくにしても、ただ運ばれるにしても、自我の放棄が必要なのね

インド思想を学んでいると、よくここまで要点を絞り込んだなという問いがたくさんあります。
そのなかでも格別なインパクトですっかり覚えてしまったものに、猿の道・猫の道というのがあります。
信じるということはどういうことか。その方法について論争があったことを知って以来、わたしはすっかりインド思想のとりこになってしまいました。


▼この本にあったわかりやすい部分を引用します。

 

◆176ページ バクティの展開・しがみつくのか、運ばれるのか? より

服部:まず、バクティについて、重要な人物でいうと、十一世紀から十二世紀にかけて生きた南インドの人ラーマーヌジャがいます。彼は、ヴィシュヌ派の思想家で、ウパニシャッドの思想に基づくヴェーダーンタ哲学とヴィシュヌ神信仰とを融合させた神学を形成した学者ですが、ヴィシュヌ派の教団を統率しながら、盛んな著作活動を行って、ヴィシュヌ神へのバクティを強調しました。南インドには、七・八世紀ごろから、タミル語シヴァ神ヴィシュヌ神へのバクティの心情をうたった詩を作って、人々のあいだで吟唱する宗教詩人が輩出しましたが、ラーマーヌジャは、このような詩人たちの活動による宗教の民衆化の動きの中に現れた思想家・神学者でした。

ひろ:なるほど。バクティ運動も庶民のあいだに広がっていったわけですから。中世のヒンドゥー教は、民衆化の方向へ向かったということでしょうね。

服部:そうですね。ラーマーヌジャの思想を受け継いだ人たちのあいだで、バクティに関して論争が起こっています。

ひろ:「猿の道か猫の道か?」という論争ですね。

服部:そうです。

ひろ:「猿の道」と「猫の道」というのは、親が子どもをどのように扱うかで、神と人間の関係をたとえたものですね。

服部:はい。猿の場合は、河を前にしたとき、子猿は母親にしがみつきます。そして、母猿は子猿を抱いて向う岸へ連れて行きます。ところが猫の場合は、子猫は何もしなくても、母猫が子猫をくわえて渡ります。そこで、「猿の道」というのは、人が救われるためには、人間の側からのバクティがまず必要で、こうした人間からの働きかけによって神の恩寵にあずかることができるという考えかたを表します。
 これに対して「猫の道」というのは、人間は弱いもので自力では何もできず、ただ神の前に自己を投げ出し、自己を神に委託すること(プラパッティ)によって救われるというものです。この「猫の道」はキリスト教的な考え方に近いといえると思います。人間の側からの神への信愛は、神の恩寵によって生じるというものです。

ひろ:猿の場合、子猿のほうから母猿にしがみつかなければならないけれども、猫の場合、子猿は何もしなくても、母猫が助けてくれるというんですね。

服部:ええ。「猿の道」は自力で、「猫の道」は他力だと考えられますね。

 自分はどうなるのかという不安を漠然と口にする前に、自分がなにかを信じるときの方法はしがみつく前提なのか運ばれる(託す)前提なのか、それは自分のなかのどういう性質によって、どこから湧き上がっているか。
いずれにしても、ひとつの道を選ぶ以上は自我の放棄が必要で、ひとつの道を選ばないことが自由ということなのかもしれません。自由よりも解放(解脱)を希求する生きかたでないのなら、そういうことになります。

 

葛藤する自由、奮闘する自由、思い悩む自由。いろんな自由があるんですよね。
楽しそうなことと、それとはまた別の楽しそうなこと、新しいことの間で揺れることが自由だと思っていたけれど、それはただのモンキーマインド。
猿の道の猿とモンキーマインドの猿は別の猿ですが、いずれもわたしの先祖。あこがれはマジック・モンキー。ああおもしろい。

 

 

参考