うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

目をおおいたい苦しみがかぎりなく書きつけてある放浪記

先日「新版・放浪記」を読み終えての感想第一弾を書きましたが、放浪記の中にはこんな一文があります。

この「放浪記」は、私の表皮にすぎない。私の日記の中には、目をおおいたい苦しみがかぎりなく書きつけてある。

 

この作家の文章は読みにくいと思う人にはものすごく読みにくく、読みやすいと思う人には「よくぞこの感じを言語化したものだ!」という感動がある、わりとクセのある作家だと思うのですが、わたしはこの放浪記の中に「よくぞ!!!」がいっぱいでした。
出版したら売れに売れて続編も出てさらにその後も追加版が出たという、この本に夢中になった当時の人々と感覚が近いのかもしれません。
この作家が格別に上手に書くのは、まさにこの気持ちです。

 

 

 こいつならいいだろ、と
 レベルを下げればいけるだろという判断をされ
 なんらかのジャッジでOKとされたことを
 自認しながら愛想笑いをして生きる人間の気持ち

 

 

ギリギリ、スレスレの自尊心をおもしろく書くのがほんとうにうまいんですよね…。
不美人・とりあえず・手軽 という人材マーケットに視点を下げたうえでの採用であることを自認しつつ、そのアウトプットとして施されるやさしさを受け取る。ありがたい感じで受け取る。この "受け取るしかない感じ" をなんともカラリと描く。カラッとした感じがすごくいい。
そして、なんと、それでも。ちゃんと断りもする。自分の「無理だ」の声もちゃんときく。放浪記に登場する松田さんという男性とのあれこれは、まさにその象徴。
以下、わたしの好きな放浪記の場面・ちょっとマイナーなあれこれ特集です。

 

松田さんとのエピソード

枕元に石のように坐った松田さんは、苔のように暗い顔を伏せて私の顔の上にかぶさって来る。激しい男の息づかいを感じると、私は涙が霧のようにあふれて来た。今までこんなに、優しい言葉を掛けて私を慰めてくれた男が一人でもあっただろうか、皆な私を働かせて煙のように捨ててしまったではないか。この人と一緒になって、小さな長屋にでも住って、世帯を持とうかしらとも思う。でもあんまりそれも淋しすぎる話だ。十分も顔を合せていたら、胸がムカムカして来る松田さんだった。
(十一月×日)

 倒置法をナルシスト風情でなくコミカルに使う技術にクラクラします。

 

松田さんが遊びに来る。私は、この人に十円あまりも借りがあって、それを払えないのがとても苦しいのだ。あのミシン屋の二畳を引きはらって、こんな貧乏なアパートに越して来たものの、一つは松田さんの親切から逃げたい為めであった。
「貴女にバナナを食べさせようと思って持って来たのです。食べませんか。」
 この人の言う事は、一ツ一ツが何か思わせぶりな言いかたにきこえてくる。本当はいい人なのだけれども、けちでしつこくて、する事が小さい事ばかり、私はこんなひとが一番嫌いだ。
(二月×日)

一ツ一ツが何か思わせぶりな言いかた にきこえてくると、自分でそのように認識を色付けしていることもわかったうえで、やっぱり嫌だという。こんな正直さは庶民には許されなかったであろう時代に、よく書いたよね…。

むかし清少納言が書いてたけど、あの人は宮仕えで庶民じゃない。

 

 

つかみどころなき焦心と、スカスカでからっぽな私

勝美さんの客は、私にも酒を差してくれた。美味しくも何ともない。五六杯あける。少しも酔わない。年をとった眼鏡の男の方が、お前は十七かと尋ねる。笑いたくもないのに笑ってみせる。ここのところが自分でも何ともいやらしい。
(一月×日)

私は私がボロカス女だと云うことに溺れないように用心をしていた。街を歩いている女を見ると、自分のみっともなさを感じないけれども、何日も食えないで、じっと隣室の長閑のどかな笑い声を聞いていると、私は消えてなくなりたくなるのだ。死んだって生きていたって不必要な人間なんだと考え出してくると、一切合切がグラグラして来て困ってしまう。つかみどころなき焦心、私の今朝の胃のふが、菜っぱ漬けだけのように、私の頭もスカスカとさみしい風が吹いている。極度の疲労困憊は、さながら生きているミイラのようだ。
(二月×日)

からっぽの女は私でございます。……生きてゆく才もなければ、生きてゆく富もなければ、生きてゆく美しさもない。さて残ったものは血の気の多い体ばかりだ。私は退屈すると、片方の足を曲げて、鶴のようにキリキリと座敷の中をまわってみる。長い事文字に親しまない目には、御一泊一円よりと壁に張られた文句をひろい読みするばかりだった。
(一月×日)

愛情とか肉親とか世間とか夫とか
脳のくさりかけた私には
みんな縁遠いような気がします。
(七月×日)


現代のような自虐のレベルではない現実味。ものすごい吐露。日本人でガンジーの吐露に勝てそうな人はこの人しかいないと思う。でもここまで自分を見据えているから、松田さんと距離を置くこともできるのよね…。

 

 

メダカ女史との交流

初回の感想に「知り合って親しくなった人に対して意味不明の嫉妬をしないので、友人が多い」と書きましたが、この作家は同性への視点が独特で、そりゃ人気も出るわと思います。まったく媚びずに観察が精確で、なんかやさしいんですよね…。

奥さんの姪が一人。赤茶色の艶のない髪を耳かくしに結って鏡ばかり見ている。額が馬鹿に広くて、眼の小さいところがメダカに似ている。三十を過ぎたひとだそうだけれども、声が美しい。この暑いのにいつも足袋をはいたかたくるしさ。私は、この民子さんの素足を見た事がない。
(七月×日)

その後何度か登場するこのメダカ女史の観察と交流は、マイナーだろうけど絶賛したいエピソード。自身はいろいろありつつも、恋愛経験の少ない女性をけっして見下したりしないところが好き。シスターフッドでも女版ホモソーシャルでもなく、大人の人間同士でやっちゃだめなやつを、この人は絶対やらない。

 

萩原恭次郎一家との交流

恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃんも凸坊も火鉢にかじりついていた。這うような気持ちで御飯をよばれる。口一杯に御飯を頬ばっている時、節ちゃんが、何か一言優しい言葉をかけてくれたのでやみくもに涙が溢れて困ってしまった。何だか、胸を突き上げる気持ちだった。口のなかの飯が、古綿のように拡がって、火のような涙が噴きこぼれてきた。塩っぱい涙をくくみながら、声を挙げて泣き笑いしていると、凸坊が驚いて、玩具をほおり出して一緒に泣き出してしまった。
「オイ! 凸坊! おばちゃんに負けないでもっともっと大きい声で泣け、遠慮なんかしないで、汽笛の様な大きな声で泣くんだよ。」
 恭ちゃんが凸坊の頭を優しく叩くと、まるで町を吹き流してくるじんたのクラリオネットみたいに、凸坊は節をつけて大声をあげて泣いた。私の胸にはおかしく温かいものが矢のように流れてくる。
(二月×日)

この一家はほんとうにやさしくて素敵だったな。

 

大宮で便秘

お母さんが大宮にいるときにものすごい便秘をして、娘の芙美子さんがお母さんを励ます場面があります。わたしはここの描写がとても好きです。
ひとことでいうと、野糞の場面です。

「まだかね?」
 時々、お母さんへ声をかけてやる。人間がしゃがんでいるかっこうというものは、天子様でも淋しいかっこうなんだろう。皇后さまもあんな風におしゃがみなのかねえ。金の箸で挾んで、羽二重の布に包んで、綺麗な水へぽちゃりとやるのかもしれない。
 俺とお前は枯れすすき、花の咲かない枯れすすき……。大きい声で唄う。全く惚々するような声なり。おいたわしやのこの人なき真昼。窒息しそうだなぞと云っても、こんなに沢山空気があっては陽気にならざるを得ない。只、空気だけが運命のおめぐみだ。
 絶世の美人に生んでくれないのがあなたの失策さ……。何処にでもあるような女なんか、世の中はみむいてもくれないのさ。
「ああ、やっと出た」
「沢山かね?」
「沢山出たぞ」
 お母さんは立ちあがって、ゆっくり裾をおろした。
「えらい見晴しがいいのう」
「こんなところへ、小舎をたてて住んだらいいね」
「うん。夜は淋しいぞ……」
 用を達して気持ちがいいのか、母は私の横へ来て、セルロイドの歯のかけた櫛で髪をときつける。

(八月×日)

うんちが出るのを待っている間に考えていることがおもしろすぎて、大爆笑。そこからの、櫛と髪。女に戻るの。

こんなふうに頭の中を自由にザッピングする書きかたが、わたしのツボを刺激する。全体的にクレイジー・キャッツ感があるんですよね…。
このおもしろさをヤングに伝える方法が思い浮かばない。自分の限界を感じます。

 

新版 放浪記

新版 放浪記

 

▼感想第一弾はこちら