うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

子どものための哲学対話 永井均 著/内田かずひろ(絵)

新幹線の中で殺人をした人が「一生刑務所に入りたかった。無期懲役になりたい」「刑務所を出たらまた人を殺す」と言っている。こういうことが起こる。起こりうる。それはどうしてと子どもに質問されたとして、どう答えるか。
この世界は、この社会の仕組み上こうなりうるのだということを、この本の第3章のトピック「13 死について」で説明しているのはネコ。ネコでもなきゃこんなことを口にするのは無理よねという話もまた終盤で拾われる。

あってもなくてもいいことをしている、あってもなくてもいい存在のわたし。とか、生きているとそんなふうに考えることがあるものだけど、どのくらい突き詰めて考えているだろう。
ひとりでそれを考えるのはしんどいけれど、この本はそれをさせてくれる。しかも、たのしく。生きるだの死ぬだののことを考えているのに、それがいやではない時間になる。なんだろうねこれ。いい本だわ。
第1章の8番目のトピック「困っている人を助けてはいけない?」の最後は何度も読み返しました。これはわたしがずっと考え続けていることとつながっている内容。

 

インドで本格的なヨガをしてきたという人が話題にする「沈黙の聖者」という存在も、なんでそういう話題の存在がありうるかというと、その存在を信じたい人は、こういうことだと思っているからだろう。最後の解説でこれまたネコが語っている。

言葉を使うことは、すでに意味を求める欲望を始動させてしまう。だから「存在することに満ち足りる」と言ったとたんに、言いようもなく満ち足りなさに満たされるのさ。だってそれは、本当は語り得ない事だからさ。

語ってしまえば自分の欲が露呈してしまう。だからせめてブランド力のある「沈黙の聖者」の固有名詞を会話のなかに織り交ぜて、その存在を知っていることを示すことで自己のレベルをほのめそうだなんてセコくて薄っぺらい。わたしはただ暗いだけにしか感じられないインド旅人に対してそう思うことがあるのだけど、そうなるとわたしは同じ土俵にいないことを証明したくなって、それをとことん言語化したくなる。

目に見えないものの存在を語りながら他人の精神までマウントしようするあの下品さの源泉を母語で掘り起こしたい、そんな激質の自意識がムクムクと立ち上がる。

 

この本はものすごく癒されることもあるのに、自分の中のエネルギーも掘り起こしてくれる。哲学って元気が出るものなんですよね。

 

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

子どものための哲学対話 (講談社文庫)