うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

脱サラ、さらさら

20代のヤングと話したときのこと。
少し年上の30代の先輩を「脱サラした人」とあこがれのまなざしでとらえている話を聞きました。わたしはこういう場面で少し不思議な気持ちになることがあります。若いのにそんな昭和っぽい言葉を使うのか…という不思議。バブル時代のファッションをパロディとして楽しむノリのようにわざと古めかしい言葉を使っているのか、本当にあこがれているのかわからなくて。


わたしの状況や考えはまえに「タイタニック号で行くか、手漕ぎボートで行くか、素手で泳いで行くか」というタイトルで書いたことがあります。


わたしは自分自身に起こった「脱サラ」の「脱」を「脱落」ととらえており、脱落後は仕事を紹介してくれる人に自分のダメな部分としてそれを伝えています。(組織への忠誠心を示す行為やイベントにうまく対応できない、というようなこと)そんなわたしなので、かつての同僚や仕事仲間に街でバッタリ会って質問攻めにあうと複雑な気持ちになります。


「脱サラ」というのは少し危険なパワーワードで、他者に寄り掛りながら被害者意識を育てるメンタルを内包している(あるいはしていた)ことを表明しかねない。なのに「脱出できるオラ、つおい」という印象を一瞬与えやすい魔力ゆえか(脱出ゲームというのもあるしね)言葉として生き残っている謎の言葉でもあります。その力は暗黒面の強さかもしれず、マスター・ヨーダはきっとそんなつもりで言っていない。それはフォースではない。あれ? 何の話だっけ。脱線した。
話を戻します。


いまは植木等の時代から数十年が過ぎ、サラリーマンの定義は実のところあいまい。会社員でありつつ家業を手伝ったり不動産や権利収入があったり、体面上サラリーマンフラグを外さないでいるだけの人もいます。わたしは20代の頃に収入の8割以上をひとつのクライアントから受け取っていたフリーランス時代があり、そのあとの再就職ですごく解放感があったことを今でも覚えています。フリーのほうが縛られている、そんな逆転現象を抱えている人も、実は少なくないんじゃないかな。
結局のところ「素手で泳ぐ力」「船を作って漕ぐ力」あるいは「鉱脈を見つけて掘ることを実行する力」というようなことが、それ(よいイメージで使われる「脱サラ」)に相応するものなのでしょう。人間社会の中でのサバイバル能力。


なので「脱出できるオラ、つおい」となった人がヤングにそれをポジティブなことのように見せるのは、ちょっとパルパティーン的と感じます。あれ? また同じ溝に落ちて脱線してますねわたし。
話を戻しますー。

 

 経験の振り返りがあるかどうか

 

わたしはいま30代なかば以上の人と話すとき、自然にこの点に意識が向きます。その年齢になる頃にはそれなりに自分のダメな要素を認めざるを得ない段階を経ていると仮定して、ポジティブなトーンで「脱サラ」という言葉を使うことに戸惑いがある人を信用します。
そんな概念すらない場所に身を置く決断を迫られた場合、そもそも「脱サラ」自体がまったくリアルではありません。家族組織の運用のためにサラリーマンである状況から引っこ抜かれる「抜かれサラリーマン」という状況は「脱出」とはまったく別の色合い。家業を継ぐ、介護、看病、子育てetc、人生の局面はいろいろあるなか、後になってサラリーマンにあこがれて数度の転職を経て公務員試験にチャレンジした知人もいます。

 

 一周まわった経験

 

これはずっと同じ環境に居てもそうでなくても(転職の回数に関係なく)、自己観察から逃げずに自分のやる気のグラデーションを一周まわって観てきたかどうかなので、ゆくゆくは他人と深くわかりあえるきっかけになるもの。

 

 「男四十にして惑わず」というけれど、いまの時代は男も女も四十で惑う。
 ポテンシャルを買われてピックアップされる年齢ではなくなっていくから。

 

これが、いまのわたしの実感。
だからこそ自分の得意不得意を以前よりも頻繁に確認して棚卸ししながら、生かせる技量の在庫は活かしつつ、種もまく。そして迷妄を減らす。漠然と迷うのではなく、ちゃんと惑う。近ごろは体力・思考力・精神力を浪費しないよう、迷妄を減らすことを重視するようになってきています。この迷妄を減らすのに、過去の経験がすごく役に立っています。なので理不尽なことも含めていろいろ経験しておくのは、やっぱりよいことだと思うのです。

 


(余談)わたしは35歳頃まで、「脱サラ」をサラ金へ借金を返済し終えた人のことだと思っていました。いまさら言えない。