たとえば「無邪気にやってしまった」ことが相手にとっては迷惑で、相手にとがめられたとします。一瞬「よかれと思って…」と心の中でつぶやいてみるものの、それでも反省のためにいま一度自分の行為の構成を分解してみる。そこで見えた「無邪気さ」や「よかれ」の考えは自分でイメージしていた以上に悪魔的であった。こんなとき、どうします? 自分のイメージのほうを行為の事実にあわせて修正できたほうがラクだって理論上はわかっていても、「よかれと思って…」とつぶやく自分の存在はどう処理しましょう。むずかしい問題です。
上記のわたしの問いかけに「うんうん、むずかしいですよね!」という反応をした人に、この本は少しきついかもしれません。そこからの予定調和はないから。そういうマイルドなタッチでは進まない。
上記のわたしの問いかけに「いや、ほんまそこやで…」という反応をした人に、この本はすごくおすすめです。関西人におすすめという意味ではなく、標準語だとちょっと足りないこの感じ。たしかに存在しているこの差をどうにもわたしは言語化できないのだけど、ラメッシ・バルセカールはじょうずに切り分ける。そしてまたくっつける。この本を読むと、その境界に近づける。できるだけわかるように作られている。編集も翻訳も手が込んでいます。
わたしは以前ここで岩波版のバガヴァッド・ギーターを二度紹介していて、二度目はこのような書きかたをしました。
上記の感想をここにアップしてから「あ、やっぱりそういうふうに感じて、いいんですね…」という反応があったのですが、そういうふうに感じてよくないのだとしたら、"あなた" はどこにいるの? と、わたしは聞きたくなる。そのなぞの自己聖人前提説のようなものは、どこからきているの? もしかしてあなた、そのなぞの聖人前提説をヨガのセンセイにも押しつけてない? んなあほな。
この本「誰がかまうもんか?!」はタイトルも含めて翻訳がすばらしいです。とくに全体の中で何度も登場する語「源泉」の訳語のチョイスがすてき。わたしは「源泉」の二文字に悶絶しました。「根本原理ブラフマン」なんて書かれても、日本人には「人造人間キカイダー」のように全く自分の人生に関係なさそうな響きになってしまう。そこのところをしっかり抑えつつ、ヴェーダーンタの根本のひとつとしてある流出論を踏んだこの二文字。温泉文化になじんだわれわれに、この二文字以上の最適解はもう見つからない。そのくらい悶絶しました。
この本はバガヴァッド・ギーターを読んで「なんだかこの人、てか神、わたしのこと完全に洗脳しようとしてるわね。でもなんだかちょっと惹かれちゃうかも…」という状況の人にとって、とてもよい解説書になります。バガヴァッド・ギーターを引用する箇所がいくつかある中からひとつ引用紹介します。(太字は本文どおり)
なぜ主クリシュナは、「私はおまえを罪から救ってやろう」などと言うのでしょう。彼には、特定の肉体精神機構のプログラムにもとづいているアルジュナの理解力では、最高のレベルで真実を理解することができないとわかっているからです。だから、主クリシュナは、アルジュナのレベルまで降りてくる。
(第1章 悟りを求める人が、初めて教えを聴く「明晰さ、あるいは混乱」より)
降りてくるどころではないあのクリシュナのサービス精神はどこからくるのか、だいぶすっきりしませんか。
この本に登場する質問者にカルメンという人がいるのですが、その人の質問のありかたは冒頭でわたしが書いたような「ですよね!」と言える教えを求める人そのもの。それに対する予定調和のまったくないラメッシの回答スタンスも読みどころです。やっぱり悟りの階梯の問答はこうでなくっちゃ。読みながら夏目漱石の「門」の終盤を思い出しました。
自身の中に存在する悪魔的な意思や思考、道徳観という行司の存在だけでは決着のつかない脳内ひとり相撲、その認識や印象や記憶にどう向き合うかというときに、この教えの中にある「考える心」と「機能する心」に分けた説明のしかたはかなり救いになります。救いというのはその言葉を真似して繰り返せばいいということではなく、決着のつかない判定に「審議」や「映像判定」という方法を手渡してくれる、そいういう救いかた。
「以後気をつけます」というお決まりのフレーズは未来に逃げているだけだということに気づいてしまっている人に、この本はすごくおすすめです。