うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

一瞬の「めんどくさい」を流すときのかっこよさ

 自分がむずかしそうに感じることをサッとやる人がすてきに見えるのはなぜだろう。わたしは料理が得意でないので、冷蔵庫の前で少し考えてさっとやる人を見ると、かっこいいなと思います。急にテーマや材料のお題が出て料理を作るテレビ番組などは、見ていて「かっこえぇぇぇぇーーー」となります。
まえに手芸のワークショップに参加した時に、先生が「う~ん、この場合はこの糸とこの針で、こんな感じで縫っていくと…」なんてやりはじめた瞬間に「かっこえぇぇぇぇーーー」となりました。圧倒的に時間を割いてきた人の熟練の技なのだけど、わたしが強烈に感じるのは「はじまった瞬間」のかっこよさ。


わたしは自分のベッド用シーツを1枚しか持っておらず、近ごろは洗うたびにどこかが破れるくらいあちこちが薄くなり、洗って干すたびに繕いをしています。そしてだんだん「今日はここが裂けたかぁ。なにを縫い付けちゃおっかな~」と楽しめるようになってきました。以前ならば迷わず「ネットで注文」となる展開。受け取ることすら少しめんどくさいと感じていました。日常にちょっとしたイレギュラーが発生したとたんに、不満の種を探しまくる。まくるまくる。
縫うなんて、考えられませんでした。でもいまは縫うという作業を常習し、余裕が出てきました。1回だいたい15分くらいですむ作業です。

 

この感じは、三点倒立ができるようになった頃の心の変化の過程と似ています。
一瞬の「めんどくさい」を流せるようになる。そのあとも、キープできている間は流し続けている。瞑想の瞬間の連続。
倒立ができそうになる時は、一瞬の「めんどくさい」を流せるようになるとき。ここが、粘りどき。これだけでもすごく学びがあります。わたしはいつもこの芽を伸ばすべく、適切なサジェストを考えています。あとは数をこなせばできるよう、祈っています。

 

この時期は、とても大切な時期です。
「こんなことができそうなわたし!」への期待と執着にのまれて「できそうだったわたし」が過去形になる瞬間に自我が耐えられず、それを裏付けるために "できない理由探し" にエネルギーの矛先を変えるという道へ向かうこともあるから。
わたしはできない理由探しには加担しません。"できない理由探し" に向かう性向を修正するためにやるのが練習の目的なので、やはりそこだけはきっぱり線をひきます。"できない理由探し・やらない理由探し" は、バガヴァッド・ギーターというインドの有名な聖典アルジュナが延々その弁を繰り返す、あれ。


わたしは、以前は縫い物をしない理由探しをしていました。縫い物が身近な作業になってから、以前よりできることが増えてきました。語学も読書も同じように、苦手な領域が減っていく。そしてその感覚から、いままた「むずかしそうなポーズ」の練習をはじめています。常習によって作為と意志をつなぐ回路がつながるまでの、一瞬の「めんどくさい」を流すためには練習しかないのだと、ここ一年でやっと日常が融合してきました。
10年以上やっていても、まだまだそんなことがあります。ありありです。

 

 

バガヴァッド・ギーターはそういう本だと思って読むとおもしろいですよん。