うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

好奇心と徳性

好奇心にも徳性(トリグナ)がある。これはわたしの経験から思うことです。
バガヴァッド・ギーターの終盤の17章と18章はちょっと見逃せない節が多くて、「苦行をした=とにかくえらい」でもなければ、「布施をした=とにかく献身的」ともみなされない。判断の主体について問う節が多く出てきます。

 

わたしはバガヴァッド・ギーターの中にある、よかれと思ってできることをしたら正義になるってのはずいぶん雑だろうということを示す節にハッとすることが多くて、さまざまな行為の中間にある心の観察を大切にしています。

 
ヨガは取り組みのスタンスが内面への問いに近づくにつれ、それが暗質的にも激質的に利用できるものであることがわかってきます。
ヨガをはじめてしばらくすると「この教えは "わたしは悪くない" という自己弁護に使える、なかなか便利なものではないか」ということに、ほとんどの人が無意識的に気づき(←ヘンな日本語だけど)、何割かの人が意識的に気づきます。
この気づきの瞬間がうまく言語化できず、この感覚そのものが漠然とした重荷となって練習から離れていく人もいる。


ヨガを続けている人を長く見ていると、その人のなかで好奇心のありように転変が起き続けていて、好奇心が純質に近づくことを繰り返しているように見えます。なんでヨガをやめたくないのかが、ときどき見える。「続けたい理由」よりも「やめたくない理由」のほうが根本的にポジティブなもの。わたしには、そう見えます。

あらゆるものに「思わずニヤついてしまうなにか」を見つけるようになってきたなと思たら、浄化の方向へ徳性が変化しているかもしれません。
ピュリファイ!

 

 

今日のことは、二年前に別の書き方で書いています。