うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

パピヨン 死と看取りへの旅  田口ランディ著

この小説を読んで初めて知った人名、エリザベス・キューブラー・ロスについてもっと知ってみたくなったけれど、途中でその思いがふっとんでしまいました。
ああそういえばなぜわたしがこの作家の本を読みたいと思ったのかと振り返ったら「アルコールと病気 TOKIOの会見を観て」というnoteの記事を読んだというのが理由のひとつであったのでした。
この「パピヨン」という小説を読みながら、主人公がイネイブラーなのだと病院で知らされた時のドスーンと来る感じやその後のあらゆる葛藤まで含め、よくあの種のつらい状況を文章にするなぁ、身をえぐるようでしんどいだろうに…と、作家の業のようなものを見せつけられ、その精神労働の重みに読んでいるだけで肩が重くなりました。


この本を読んだら、物語とシンクロするエリザベス・キューブラー・ロスという人物よりも、ノーベル平和賞を受賞した頃のマザー・テレサについてもっと知りたくなりました。ものすごく下世話な感情が解凍されてしまった。マザー・テレサの内面告白を本人が亡くなってから公開する神父がこの世にいるなんて驚きだし、人には「告白」が必要で、そうでもしないとやっとれんということなのだろうか。他人に求められる告白や儀式的な告白ではなく、自発的な告白。他人に求められた時点で、告白はプレゼンになってしまう。だからこそ告白が必要なのだろうに、それすらのちのち暴露されてしまう聖人は大変だ。


それでもマザー・テレサには告白する相手がいたのでした。世界を救いたいと考えたカルト宗教教団の教祖にも告白の相手がいれば、もっとなんとかなったのかしら。同じ作家の「逆さに吊るされた男」を読んだせいか、ふとそんなことにまで妄想の範囲が広がってしまいました。
そこまで範囲を広げてみて、あらためて最後に "頑張ったけど、意味なかったわー" というスタンスに至ったエリザベス・キューブラー・ロスという人物が興味深く、 "頑張ったけど、意味なかったわー" という結論のほうが健全に見えてくるから不思議。別のところに意味を見出していないと、こんなこと言えないと思うから。