うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガは季節や社会と自己の間でクッション役をしてくれるもの

今年は3月後半から春を迎えるまでに、東京では気温が数回冬に揺り戻され、変化の大きな数週間でした。

今週もまた一度寒くなるみたい。なのに昨日は岩手県で30度のところがあったとニュースで聞きました。

 

わたしはヨガクラスでの冒頭の話を季節テーマで考えているので、今年の春は数日前に考えた計画をあっさり覆される “気温のちゃぶ台返し” に驚くことの多い日々でした。

それでも冬には宿便の話、花粉の季節には鼻うがいの話というふうに、Yogic Way を季節の変化とともに楽しんでいます。

 


生活行動のひとつとしてヨガを続けていると、自分の生活環境の変化に加えて時代も移り変わり、社会状況の影響にあとから気づくことが多いもの。あの頃はああだったけれど今はこうするようになったと、いろんなことが更新されています。
例えば気候でいえば、わたしが関西へヨガクラスをやりに行きはじめた頃は7月だったのが、台風が多くなって安全策をとって6月に設定するようになって、少しずつ日本の気候の変化に沿って早める方向へ変わっていきました。
2010年時点でのスマホの普及率は10%未満でしたが、いまは高齢のかたも桜の写真をスマホで撮っています。微妙にネトウヨ化していく親に頭を抱える同世代の友人が同時に複数発生したり、十二支が一周するとこんなにも時代は変わる。
特にここ2年のパンデミック以降は、“健康とはどういう状態のことか” を再確認し、社会的身体としての自己を振り返ることが多くなっています。

 


ヨガはこのように、季節や年月を重ねて社会生活をしながらホルモンバランスと神経刺激への反応の過不足を乗り越えていく、それら全体を含めて「身体」といっている。
そういうものだったのか、不変の部分はそこかと、10年以上続けてみることで自分の中から実感として言葉が出てくるようになりました。
さまざまなヨガの先輩がそのように語った文章を読んではいたけれど、自分の身体を知識が通過していくには年数がかかります。

 

 

さて。
わたしはそんな毎日を送っているわけですが、ここからぐいっと、ヨガに対する本音の話です。
先日、1996年のオウム真理教の信者を追ったドキュメンタリー映画『A』をやっと観ました。


8年前に本を読んで、いつか観ようと思っていた映画でした。
わたしは事件当時(約25年前)から、教団施設やクルタを着た人たちの映像が苦手です。その理由は、大勢人がいる中で信者が刺殺されたニュースを記憶しているから。
え? なんでこんなに大人がいて防げないの? と状況がよくわからなくて。ジョン・レノンケネディ大統領のような銃殺なら防ぐのが難しいのはわかるのだけど、大勢のなかでそれが起きた。

世間からよくない意味で特別視されたら見殺しにされる社会に複雑な感情を抱きました。当時は地方に住む学生で、東京のマスコミ社会ってこうなの? という恐怖。

 

 

この映画は、ずっと予告映像の時点で尻込みしていました。それで観たのがやっと今。
その漠然とした嫌悪感について、理由を自分のなかでさぐり続けてきました。
そして2月に読んだ以下の本が、これまで自分が探してきた答えに近いものと感じました。

どんな組織でも、ビジョン・ミッションを掲げながらその達成方法が悪魔的な手法へ流れれば、カルトっぽいと感じる瞬間があったりするもの。20年以上の社会人生活を経て、世間からホワイトだと言われる企業で働く経験をしてもそう思います。
この状況への思いは、その都度自分のなかで言語化していく必要があります。

 

 


それにしても。
こういうことをいちいち考える動機はどこから湧いてくるのか。
これについては、自分のなかで以下があると認識しています。

 

 

  身体と脳を解剖せずにその仕組みを探り当てたインド人への畏怖。
  頭良すぎでしょ! 根気ありすぎでしょ! という思い。

 

 

わたしの習ってきたヨガは深刻じゃなかった。
だから、ヨガ=一部の人がめちゃくちゃハマるもの、というふうに括られると反発したくなる。
ハタ・ヨーガの書物は読むととんでもないことが書いてあったりもするけど、気温差に呼吸法で対応しようとしていたり、瞑想で心のトラブルに対応しようとしているものだし、アーサナをして本気で16歳の少年のように若返りたがったりしている。
そういうのも、そもそもヘンテコで、おかしくてかわいい

こういうことも、何度も書いてきました。

 

 

こういう視点でいるわたしが、この映画を観て知ったオウム真理教の教えに対して感じたのは、マーヤーという捉え方を準備の少ない状態でいきなり持ち込む行為そのものが暴力的であるということ。
身体を動かして変化が起きただけの、なんなら「運動不足だっただけよね?」という状態の人にマーヤーを語れば、もともと発展を憂う気質を持った人には、そりゃ都合よく頭に電球が灯る。餌の撒きかたが露骨すぎます。もっと準備をして時間をかけて学ぶものを、ポンと渡すようなことをしている。
映画の冒頭でラジカセから流れる麻原彰晃の ”マーヤ” の説法を聴きながら、そんなことを思いました。

 


そして、信者の多くは自分の信じているものを「仏教の教え」として話していました。
これはいまで言うと、Youtuberに対して ”出典を明確にしてエビデンス・ベースで話すから信用できる” と言っている若者とあまり変わらない気がしました。
信者の仕草でヨガにありがちなエゴが見えたのは "いまそこまでのそれは必要ないよね" とツッコミたくなるほど深く組まれた結跏趺坐だけ。根拠を持ち出すときは「仏典」と話しています。
1996年の様子を撮った映画では、PC画面に見えたブラウザがネットスケープ・ナビゲーターでした。麻原彰晃が大量に説法をしていた頃は、エビデンスを受信者が検証するには情報収拾が今ほど容易ではなく、そもそも信じたい気持ちで聞いているのだから、マインドコントロールもなにもそんな大げさなものじゃなくて、いまYoutubeを見て意思を補強している人とどこが違うのだろうと、そんなふうに感じました。

 

 

わたしはオウム真理教の時代のあとにヨガをはじめました。
これはいま思うことですが、「よりよく生きたくて解脱を目指すって、根本的に自分の中から湧き上がってきた願いなんだっけ?」という問いを持ちながら、それを矛盾と強く感じずに身体を動かして心地よさを感じられるところまで、フィジカルに視点を置いた現代ヨーガはすばらしい発展を遂げています。
この意味、伝わるかな・・・。ちゃんとアク抜きや下ごしらえの処理がされているということです。
自分がダメな理由がどこかにあることにしたがる、そういう思考に濃すぎる餌を与えない道が整備されている。これはほんとうにありがたいことです。
多くの日本人はもともと概ね無神論者であるということをすっ飛ばさない、そういう遠回りって、だいじ。
わたしはそういう考えを持ちながらヨガをしています。

 


10年前からあまり考え方が変わっていません。
それはわたしが「オウム以降」の世代だからなんですよね。

 

さて。

先日、同世代のヨガ仲間が久しぶりに連絡をくれました。わたしがこのブログに書いた映画『A』の感想を読んだと。
彼女は映画が公開された頃に遠方の映画祭まで出かけて観たそうで、当時の感想を教えてくれました。とても興味深いお話でした。
そしてわたしが「いまの感覚と知識であの映画を観ると、当時の麻原彰晃は現在の自分よりも年下で、冒頭の説法が○○○○○や****のような、若者に求心力のあるYoutuberのトークのように聴こえた」と具体例を挙げた意見も、「そう言われたら、そうね」と聞いてもらえて、お互いの心根の感覚を交換しました。
個人の経験と観察と考えを統合した状態の人と話す時間は、短い時間でもとても有意義で、心の支えになります。寝る前のほんの少しの会話だったのだけど、映画を観て長々とこのブログに感想・考えを書いてよかった。


この歴史の振り返りは、忘れずにときどきやっておきたいと思っています。

ヨガのブログを書いているのでね。