うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

サンカルパの構文


これはわたしが何年もヨガニードラをガイドするなかで考え続けていることです。
ヨガニードラで唱えるサンカルパは、内観が進むほど、より組み立てが主体的になっていきます。
自己に向き合うという段階を踏もうとすると、そのように変わっていきます。



ことしの夏、友人がヨガクラスへ来てくれたときに近況とあわせてサンカルパについて語ったのを聞いて、このように進んでいくものだろうか… と考えたことがありました。
少し抽象化して書きますが、今日の例は「怒らない」ということを題材としたサンカルパ。
もしあなたのサンカルパが「怒らない、怒らない、怒らない」と唱えられていたとしたら



 怒らない



という文章は



 怒りを抑える力を得る



になると、より主体的になります。
そして



 ○○さんに対する怒りを抑える力を得る



であれば、さらに具体的になりますが、これは期限がないと、むずかしいかもしれません。



 ○○さんに対する怒りを抑える力を得て、○○さんに感謝する



になると、破たんしています。
印象はいいのですが、「◯◯さんに感謝」というのは「怒りを抑える力を得る」こととは必ずしもイコールで結びつきません。結果として感謝という気持ちが顕現するかしないかは、神のみぞ知る結果。サンカルパはキャッチフレーズではありません。
「感謝」という単語や印象を引用してまで、目標のフレーズを盛る必要はありません。自分を責める材料を増やしてしまうだけです。
もし「感謝」という言葉を使うのだとしたら、無理に使う必要はないのですが、あえて考えてみるならば



 ○○さんに対する怒りを抑える力を得て、それができた自分に感謝する



このほうが、理が通ります。
特に介護や子育てなどの場面では、そうこうしているうちに相手の状況が変わってしまうこともあるけれど、怒りを抑える力を得た人間は、動物よりも神に近づく。自分に感謝することが、神への感謝とひとつになる。そういう構造になります。
サンカルパというのは長い目で見ていくと、こういうことだろうと理解しています。



わたしはふだん、瞑想のサンカルパの説明で「神聖な誓い」という表現をしていません。信仰を持たない人の多い日本人の感覚では、いきなりは理解しにくいだろうと思うのです。
むしろサンカルパを定めていく構文を整理するプロセスで、さまざまな「自分を縛るもの」があぶりだされるのが日本語の構造なので、そこの幅をショート・カットしないほうが、自己に向き合う時間が多く持てると考えています。


目標を定めるとか自己を見つめるというのは、神社でのお願い事で「◯◯しますように」というような文法を迷いなく使う文化で暮らしてきた人たちには、むずかしいことだと思っています。他人の願い事が目に見える形で示されている絵馬のようなものを見慣れてしまった文化では、「サンカルパが見つかりますように」なんて、まるで王子様のようにサンカルパがやってくることを願ってしまいかねない。「サンカルパ 例文」なんて文字列で検索してしまうのも、そういうことかなと思っています。


今日は事例があるとちょっとわかりやすいのかなと思って書いてみましたが、サンカルパはとても個人的なものです。
自分が自分に愛される(自分で自分を見捨てない)、そういう構文を、わたしもいつも探し続けています。


uchikoyoga.hatenablog.com