先日、アガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』を読んだ人たちと話をする読書会をしました。
そのときにほんの少しでしたが、「反面教師にする」という視点のあやうさについて話しました。
この小説の主人公であるジョーンという女性は、しっかりと規律的に模範的に物事が進むことを望む性格で、それが行きすぎている見え方をするように、全体としてはそのように書かれています。
今日はここからは大切な部分に触れていくので、まだ読んだことのない人にとってはネタバレと言われるようなことを書きます。
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この物語には、主人公がいまの自分の状態のルーツに一瞬だけ気づく、そういう場面があります。
自分の母親はだらしがなく軽蔑すべき人物だった。だけど、父親から愛されていた。そのことを、とくに「愛されていた」という事実を思い出す場面があります。
“だらしがなく軽蔑すべき人物だった” というところを反面教師にして家庭内で頑張ってきた主人公が、自分は家族から愛されていないことに気づいてしまいます。
だらしがなく軽蔑すべき人物にはならないようにすることと引き換えに、他人から愛される要素を削ってきたことに気づきそうになります。
わたしはここは、そこを紐づけたら、気づきすぎたら精神を病んじゃうパターンなんじゃないかと思って再読でも少しハラハラする場面です。
反面教師って、そもそも批判から始まっているから、根底から湧き上がるものとつながる「目標」にはなり得ない。
わたしはこれまでに、何度もそのことを考えてきました。
ヨガニードラの手順の中に入っている「サンカルパ」について考えるときに、それを繰り返してきたからです。
「ああはなりたくない」と「こうなりたい」には大きな違いがあって、後者は記憶を失っても自分の根底から湧き上がる自然のエネルギーとつながっていけるけれど、前者は批判の対象の記憶に依存します。
わたしはヨガの学びの長く厳しい面はこういうところにあると思っていて、その実感をずっと持ち続けながらやっているので、そこに触れてくるこの物語を読んだときに、心理学の本を何十冊も読むよりもすごいんじゃないかと思ったほどでした。
この人は反面教師を軸にしてきたから、そもそも軸がない。その種明かしがさらっと差し込まれています。
読書会でも一瞬、反面教師の存在を元にこしらえた考えを軸に据えることのあやうさについて、日常で思い起こしたことを話してくれた人がいらっしゃいました。
自分のつらい記憶を使って妙に逆方向に強く舵を切っているな……という選択って、あるものです。それ自体は当たり前にあることだけど、それが強くなっているときは、いつの間にかその元ネタである、なりたくないものの存在に乗っ取られている。
『春にして君を離れ』は、否定的な思考のカルマのようなものを見せてくれる物語でもありました。